断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

同窓会へ行ってきた

 「同窓会へ行ってきた」と題したが、本当に行ってきたわけではない。Zoom飲み会に参加したのである。
 五年ほど前に高校の同窓会があった。学校に集まって、担任だった先生方にスピーチをしていただき、それからみんなで教室や校舎を見て回った。その後パーティー会場へ移り、あらためて「久闊を叙した」のであった。
 その後も年に1、2回のペースで小さな飲み会があったが、私は一度も参加していなかった。場所は東京がほとんどだったが、年末年始でなかなか都合が合わなかったのである。それがこのコロナ禍でオンラインの飲み会が普及し、図らずもその恩恵に浴したのであった。私は静岡からの参加だったけれど、それ以外にも日本のあちこちから参加しており、中にははるばるベルギーから顔を見せた友人もいた。窓からベルギーの街を映してくれたが、コロナ禍の街中は、ひっそりとして人通りも絶えているように見えた。
 スマホが普及するにつれて、私たちの体験はリアルとヴァーチャルに二極化していった。ヴァーチャル空間での体験はますますウエイトを占めるようになってきたが、コロナ禍が、私たちの内にひそむ「リアルへの欲求」を、思いもよらぬ形で刺激してみせた。出不精の人間も、ずっと家に閉じこもっていれば外の世界が恋しくなる。ふだんは飲み会なんて面倒くさいと思っている人も、禁止されてしまえば無理にでも出かけたくなるものである。
 オンライン飲み会は、そうした欲求に応えるかたちで現れてきたものだが、ヴァーチャルな空間を利用したリアルな交流には、やはり限界もある。例えば飲みながら誰か一人が話をすれば、他の人たちは黙って聞いていなければならない。あまりに参加人数が多いと、不特定多数の人間にスピーチでもするような感覚になってしまう。
 むろんこの欠陥も、VRの技術を使えば克服できるかもしれない。架空のパーティー空間で複数の人間と交流し、盃を交わしながら談笑するなどということも、たぶん技術的には可能であろう。同じ原理は観光にも適用できるに違いない。私たちは、家にいながらにして富士山山頂に立ち、黒部の大峡谷を眺め、京都の寺社に参拝することだってできるはずである。
 しかしVRの技術による感覚の再現は、視覚や聴覚が主な守備範囲であって、味覚や触覚となると途端にハードルが高くなる。運動感覚は部分的には可能だが、それにしてもサッカーやサーフィンをヴァーチャルで「リアルに」体験するなどということは、当分実現しないだろう。
 先日YouTubeで、東北地方の秘湯の動画を見ていた。渓流に沿って散在する湯船を順々にめぐっていくというものだったが、何個目かの湯を見ている時、ふいにその湯の感触がありありと伝わってきた。むろん単なる連想である。実際に湯につかれば、たぶん全然違う感触だろう。動画から本当に湯の感触が伝わってくるはずがない。しかしこの手の感覚的連想は、さまざまなヴァーチャル体験を、いわば黒子のように背後から支えているものであって、目にする映像が「リアル」に感じられるのは、多分に私たちの連想能力による。これに匹敵するものをVRの技術で代替することは、今のところかなり困難であろう。
 しかしもっと難しいものがある。登山やトレッキングに親しんでいる人なら同意していただけると思うが、山から降りてきて人里に近づいてくると、何となくそれが分かることがある。人の匂いがするとでも言えばいいのだろうか。実際には目に見えていなくても、一種の気配でそれと知られる。それまでとは別種の空間が近づいているのが感じられるのだ。こんなものは絶対VRでは再現できない。逆に言うと、もしもこの手の体験をVRで忠実に再現できるようになったら、その時こそ私たちは、リアルとヴァーチャルの境界を失ってしまうであろう。
 山を下りてきて感じる人里の「気配」とは、感覚と精神の汽水地帯での体験である。ところでこれを、いま少し濃密化すればベンヤミンの「アウラ」になるというのが、私の考えなのである。



春を待つ大井川の風景