断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

冬は名のみの

 北陸が記録的な豪雪に見舞われていた頃、 寒波は静岡も襲っていて、ここ数年ちょっと記憶にないくらいの寒い日が続いていた。最近はようやく寒さも緩んできた。昨日は気温も二十度近くまで上がり、冬は名のみの風の暖かさであった。 久々に山の方まで足を伸ばしてきたが、驚いたことにヒュウガミズキがすでに開花していた。木々の枝々もすでに春を前にした張りを示しており、まるで三月時分の風景の中へ迷い込んだようであった。今年は冬らしい冬が続くと思っていたけれど、どうもそうではなさそうである。
 さて前回の記事で徒然草の一節を引用した。これについてちょっとだけ注釈めいたものを付け加えてみたい。
 この話に出てくる盛親(じょうじん)というお坊さんは、一見したところ身勝手で自分本位なだけの人物に見える。またこういう我儘が嫌われることなく、周りからも許容されているというのは不思議なように思われる。 
 一口に我儘な人間というけれど、実はそこにはいろんな種類があって、絶えず他人に文句を言い、要求ばかりしている我儘と、他人の思惑には一向に無頓着で、一匹狼のように気ままに生きている人間の我儘とでは大違いである。前者は 他人との関係性にとらわれた我儘だが、後者はそうした関係性からは超越している。
 人間の自我は他人との関係性から成り立っている。誰だって他人から褒められれば嬉しいし、貶されれば腹が立つ。 しかし考えてみたらこれは不思議なことで、もしも私たちが自分の存在を、正当に客観的に評価しているならば、他人が褒めようが貶そうが、そんなことはどうでも良いはずである。でもそうはならない。自己についての評価は絶えず他人の見方に左右される。
 のみならず自己評価というものは、時どき思いついたように自己を採点し、評価するといった類いのものではない。「私」という固定的なイメージがあって、それが折に触れてプラスに評価されたりマイナスに評価されたりするのではない。むしろ自己評価は、「私」というこの感じの中にすでに含まれている。私が自分の存在を感じるのは、私が自分をどのような人間と感じているかということと同義である。
 「私がある」という存在感情の内に、私についての「いかに」 が含まれ、その「いかに」がまた、他者との関係性によって成り立っているとしたら、他者との関係性を超越している人とは、同時に自己自身を超越していると言うべきであろう。盛親とはそのような人物である。彼は他人から自由であるだけでなく、自分からも自由である。
 しかし「徳のいたれりけるにや」という兼好法師の評価は、たぶんそれだけには尽きないだろう。寺院という共同生活の場で、かくも自分本位に振る舞って嫌われないということは、 単に一匹狼的な人間であるだけでなく、どこかに愛すべき一面があったはずである。「愛すべき」というのは、「子供らしい」とか「憎めない」などと言い換えてもよい。法談の席で芋頭をつまみ食いしながら書物を読むとか、せっかく手に入れた財産を芋頭のために散財してしまうなどというのは、まさしくそれである。この「どこか憎めない」人柄が、他人への無頓着さと一体化していたところに彼の真面目があったのであって、それゆえ身勝手も傍若無人も、愛すべき我儘として許容されたのであろう。「徳のいたれりけるにや」とはそういうことなのであろう。