断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

セネカとニーチェ

 話はちょっと前後するが、以前に書いたセネカの記事の続き。
 
 大衆でいっぱいの中央広場、皆が集まってごった返す囲い場、それにあの競技場[…]そこには、人間の数と同じだけ悪徳がある。そうした連中のあいだには「…」平和は存在しない。お互い同士、わずかな儲けのため、相手を破滅させる企みへと引き込まれる。誰にとっても、儲けとは相手に対する不正の別名だ。幸運な者を憎み、不幸な者を軽蔑する。上の者を重しとし、下の者に重荷となる。多種多様な欲望に衝き動かされる。はかない快楽の餌に惹かれ、あらゆる破廉恥を欲求する。[…]それは野獣の集団だ。もっとも、動物たちはお互い同士穏やかで、同類に噛みつくことは控えるが、こちらはお互い同士、傷の浴びせ合いを堪能する。(兼利琢也訳「怒りについて」)


 人間の理想は時代や社会によってさまざまだが、悪徳のほうは万古不易でいつの世も変わらない。セネカにとって人間とは「身体の病に数で劣らぬ心の病に罹りやすい動物、鈍くものろくもないが、己の才知を悪用する動物、互いが互いの悪徳でしかない動物」(同上)である。「人生の短さについて」の中で、セネカは世人の生き様をこう批判する。

 これらの人々を最下位から最上位までずっと見渡してみるがいい。ここには訴訟の相談に乗る者がおり、また証人になる者がいる。あそこには人を審問する者がおり、また弁護に立つ者がいる。またあそこには判決を行う者もいる。しかし誰ひとりとして自分自身の権利を主張する者はいない。互いに他人のために利用されあっているだけだ。[…]甲は乙のために耕し、乙は甲のために耕すが、誰ひとり自分自身を耕す者はない。(茂手木元蔵訳)

 「甲は乙のために耕し、乙は甲のために耕す」というのは、いわゆる利他的な行為のことではない。私たちは社会の中で、お互い利己的な動機にもとづいて立ち回っている。しかし他人の承認や賞賛を通して自分の虚栄を満足させようとするから、他人との関係性へ巻き込まれてしまい、自分自身を見失ってしまう。元々は自己利益のために立ち回っているつもりなのに、結果的に自分をないがしろにしてしまっている。なんと愚かなふるまいであることか―セネカの言いたいのはこういうことである。
 悪徳すなわち人間性の負の側面は、古代ローマ現代日本も変わらない。しかし美徳や理想は時代によってさまざまに異なる。そして前者がいつでも具体的に描かれているのに対し、後者はつねにいくぶんか抽象的である。

 いと高きもの、秩序あるもの、怖れを知らぬもの、一様で調和した進行で流れていくもの、無碍なるもの、心寛きもの、公共の善のために生まれたもの、自身と他人に安寧をもたらすものを目指す人は、下劣な所業を決して欲っせず、決して泣かないだろう。(兼利琢也訳「賢者の恒心について」)

 しかるに、どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。なぜというに、新しい楽しみのひとときが何をもたらそうとも、それが何だというのだろうか。こんな人には万事が知り尽くされ、万事が十二分に理解されている。(「人生の短さについて」)


 おそらく人間の理想とは、さしあたっては消極的にしか(つまり悪徳の否定形として)規定できないものなのであろう。具体的で積極的な規定性を与えようとするならば理想の「像」を、すなわち超越者のイメージを提示しなければならなくなる。
 ニーチェの超人思想の困難はここにある。彼はあらゆる超越者(=神)を拒み、人間性そのものにひそむ高貴な側面の、いわば内在的な純化と発展を夢見た。そのようにして生み出されたのが超人の理想である。その過程において彼は、人間の卑俗な側面を剔出し、超人のアンチテーゼとしての末人を創造した。末人は人間性の負の側面を形象化したものである。それゆえ超人と末人は(ニーチェ自身が述べているように)対となる存在である。しかし末人が徹頭徹尾リアルな存在であるのに対し、超人は具体的な規定性を欠いている。超人はどこか宙に浮いた存在である。だが仮に、超人を具体的な「理想像」として造形したならば、それはニーチェの拒もうとした「超越者」になってしまったであろう。そのとき超人思想は一個の宗教に成り下がってしまったであろう。
 『ツァラトゥストラ』の中でニーチェは、人間の偉大さを「過渡であって目的でないこと」に見出している。たしかにこれは超越者(=神)の概念とは決定的に背馳する。「神」の偉大さはその自己完結性の中にあるからである。
 しかし目的なき過渡というものに、果たして積極的な意義を見出せるのだろうか。変化はそれ自体としては良いものでも悪いものでもない。それはふつう、何らかの目的論的規定を通してはじめて「意義ある変化」となる。
 目的論的規定なしに変化が意義をもつには、変化そのものに何らかの価値規定が内在していなければならない。それゆえニーチェは「過渡」という概念(これはそれ自体としては価値中立的な概念である)を、「自己超克」という積極的な概念に言い換える。超人とはたえざる自己超克を行うものである。この場合「超克」の対象となるのは、私たちの内なる負の要素、つまり「末人的」な要素である。
 ここにおいて超人思想は、ストア派的な「理性による克己」という命題と類似するのである。ニーチェ自身は実はストア派にはあまりシンパシーを感じていなかったのだが、しかしたとえば「真の男子の名で呼ばれるべき者が出来上がるには、より逞しい運命が必要だ。彼の行く手に平坦な道はないだろう。[…]見よ、徳がいかに高く昇らねばならないか。彼の進むべき道が決して安全な地域でないことが分かるはずだ。」(兼利琢也訳「摂理について」)などという文章は、『ツァラトゥストラ』のどこかへ挿入しても、全然違和感を感じさせないものなのである。