室生犀星の「白い日」
あっという間に一月が終わり、二月になった。今日は立春である。最近は家に閉じこもって作業していることが多かったが、ここ三日ほど、時間を作って自転車に乗っている。今日は山の方へ出かけてきた。日差しがいつのまにかよほど強くなっており、山野は日の光が氾濫していた。「氾濫」という言葉が少しも誇張ではないくらい、大地はすでに早春の気が満ちている。梅もあちこちで開き始めている。途中で何度も自転車を降り、顔を近づけて匂いを吸った。
白い日
九年ぶりふるさとにきたる
早春
日はしらみわたり
紙のごとくして光らず
マントを着たる少女らあゆみ
その髪はたばねたれども
みだれ吹かれるにまかせたり
川べをゆきもどりすることなく
くるまにて過ぐ
水はあをく走りて海に入り
水も雪解をまぜて白めり
ふわふわとして白めるものは何か
日のひかりにはあらざるものは何か
室生犀星の作品。『いにしへ』という詩集に収められている。『いにしへ』は犀星が52歳の時、郷里の金沢へ帰郷したのを機に書いた詩を集めたものである。いわゆる連作詩とは異なるけれど、全編を同じ一つの情感が貫いており、一つ一つの詩は、あたかも同じ湖水の、さまざまな波頭といった趣を呈している。だからこれらの詩は、一つ一つを切り取って読むのではなく、いくつかをまとめて読むべきである。ちょうど展覧会で、一人の画家の作品をまとめてみることにより、作者の精神の全体像を感得できるように。
魚
魚をあぶり
菜をきざみてもてなせる人ら
おのが疲れを知らず
報いられるべきことを知らず
ただ あがれあがれとは云へり
ものを食うべ
ひとのなさけの深きをしる
早春
故山きびしき中にゐてしる
山も河も
ここにあるもの山も河も老い
人も老い
ひさかたのわれも老い
誰も彼も死にはてたるはなし
死にかかはらぬ話とてはなし
山も河も
人もみなよろけ老いけり
この人を見よ
この人はよく見し人なり
いまもなお生きて歩めるを見れば
古き帽子ふかぶかとかぶり
何の用あるものならん
まなこ霞めるがごとく
途呆けしありさまにて行けり
ああ この人はまだ生けりしか
これらの詩を貫いているのは、虚無とも諦念ともまた悲哀ともつかない、一種独特の情感である。個々の詩はこの情感に対し、多種多様な象徴的関係に立っている。「白い日」はその中でもひときわ印象深い作品で、作者の心象を尖鋭に表現している。この詩を読み進め、結尾の「ふわふわとして白めるものは何か/日のひかりにはあらざるものは何か」という二行に至るとき、私たちは詩集『いにしへ』の詩情の中核に立っているのに気づくのである。