断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

詩・批評・哲学

 新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 年が明けてすでに10日近く経っており、実は大学の授業もとっくに始まっているのですが、遅ればせながらブログの方も、今年度第一回目の記事を書いてみたいと思います。 テーマというか素材は、小林秀雄三木清の対談からです。


小林 そういうふうなことは三木さんのこのごろの思想の中心だね。あなたのいう技術とか、構想力とか、このごろの三木さんのそういうものはよくわかるよ。非常によくわかるんだ。あなたに貰った本もみんな読んだし、―― そこで僕は非常に大きな疑問があるのだよ。それはこういうところで喋って喋れるかどうかわからないが、あなたは、 あすこまで考えて来たわけでしょう。そうしてあんな文章を書いてはいけないのだよ。そういうことだ、非常に簡単にいうと。非常に乱暴な言い方をしているらしいが、わかってくれるでしょう。
三木 うン。
小林 論証するには論理でよいが、実証するには文章が要る。哲学というものを創るという技術は、建築家が建築するように、言葉というものを尽くす必要がある。それを言うのですよ。考えるとは、或いは見るとは創ることだという命題は、ただディアレクティックではとけないのだと思う。
三木 君の言うことはよくわかるよ。自分でもそのことに気附いている。
小林 素人考えから言うのだけれども、ヘーゲルという人もそういう人だと思うのだ。読み方がいけないのだよ。(中略) 彼は眼の前のものをはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じてやって行ったのだね。その挙句ああいうディアレクティックの体系が出来上って了った。逆に入っていくから彼のディアレクティックの網の中にまるめられて了う。
小林秀雄対談集『直観を磨くもの』(新潮文庫)より) 

 対談の場でこんなことを言ってしまう小林秀雄はすごいが、それにあっさり頷いてしまう三木清もすごい。知的誠実というのは、一事が万事ということなのだろうか。 
 哲学するとは、単に論理を組み立てるだけの作業ではない。ましてや出来合いの思想や概念で、対象を裁断することではない。 自分の眼力を信じて対象と向き合い、対象との関わり合いの中から論理を引き出し、そして言葉を紡いでいく。それが「哲学というものを創るという技術」である。ーー小林秀雄の言いたいことはこういうことである。
 対象との関わり合いの中から、新しいものを創り出して行くという点で、哲学は詩的創造と相通ずるものがある。しかし哲学は、詩と似ているけれど異なる点も多い。
 言うに言われぬ体験を言葉にしようとする詩人にとって、書くことは見ることと同義である。それまで漠然と感じ取っていた対象の本質は、言葉を尽くすことによって初めて、まざまざと目に見えるものとなる。哲学者も同じような事をするけれど、その際、言葉を尽くすというよりは論理を尽くすのである。
 私は時間とは何かということを、誰にも尋ねられないときはよく知っているけれど、尋ねられて説明しようとすると分からなくなる。これはアウグスティヌスの有名な言葉だが、同じことは他の哲学的問題についてもそれは当てはまるだろう。存在とは何か?意味とは何か?自我とは何か? これらのものを僕たちは日常的にちゃんと知っているように思っているが、いざ説明しようとすると、とてつもない困難に直面する。 そのような「言葉にしがたいもの」をなんとか説明しようとして、表現を創り出すのが詩人であれば、論理を編み出すのが哲学者である。
 ある数学者が(名前は失念してしまった)こんなことを書いていた。鬱蒼とした森がある。どこから眺めても混沌としているように見えるけれど、ある角度から見ると俄然、整然と立ち並ぶ構造が見えてくる。発見とはそういうものであり、数学固有の美とはそこにあるのだと。
 同じことは哲学にも言えるだろう。すぐれた哲学理論とは、事象の本質的構造を切り出す決定的な視座である。出来合いの理論によって事象を説明するのではない。事象そのものから理論が引き出されるのである。
 以上のような観点から、詩と批評、そして哲学の関係を考えてみよう。出来合いの批評理論によって対象を説明する批評は、真の意味での批評とは言えない。すぐれた批評は、対象そのものとの関わり合いの中から、新たな思考の論理を引き出してくる。そのような論理は、当の対象に当てはまる「個別的」な論理だが、しかし別の作品に当てはまることもある以上、厳密な意味で個別的とは言えない。これに対して詩の表現は、真の意味での個別性ないし一回性を求めてやまない。一方哲学が求めるのは、論理の個別性ではなくて一般性ないし普遍性である。このような意味において批評とは、詩と哲学の中間にあるもの、両者を媒介するものなのである。