断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

科学と信仰―クレイグ・ヴェンター氏のインタビュー

 私の勤めている大学の講師室には、不要になった古い「シュピーゲル」誌が山積みされている。時々持ち帰って、電車の中で読んだりしている。そういう次第で多少ネタが古くなってしまうのだが(4年前のもの)、今日はその記事の中から一つ紹介したい。アメリカの分子生物学者クレイグ・ヴェンター氏とのインタビュー記事である。
 ヒトゲノムの解読で有名な氏について、ご存知の方も多いと思うが、かれこれ15年ほど前、彼の率いるセレラ社の研究チームと、世界中から千人もの科学者を集めて作った米国のヒトゲノムのプロジェクトチームとが、ヒトゲノムの解読をめぐってしのぎを削るということがあった。「ヴェンターははるかに迅速にそして安い費用でゴールに到達したのである。今年で63歳、億万長者でもある彼は、以降、「研究開発会社のごろつき」として通っており、自身、そうしたイメージを楽しんでいる。その後も彼は、新たな勝利を通して世界中を驚かせ続けている。」(「シュピーゲル」誌の紹介記事より)
 その後ヴェンターは、人工ゲノムの合成に成功し、バクテリアの細胞に移植して新たな生命体を作り出したりした。記事のインタビューはちょうどその時分に行われたものである。

シュピーゲル:「ヴェンターさん、かつて遺伝子学のエリートたちがヒトゲノムの解読にいそしんでいた頃、あなたは彼らの「不倶戴天の敵」でしたね。[...]どうしてあそこまで敵意を向けられたのでしょう?」
ヴェンター:「なあに、誰が勝負で負かされることを好んだりしますか?より優れたプラン、より優れた技術、より優れた知性に打ち負かされるということに?そりゃあ苛立つに決まってます。」
シュピーゲル:「すべての科学は競争だと言えます。でも、あそこまで罵られるというのは珍しいと思いますが。」
ヴェンター:「いえいえ、ヒトゲノムは全くの別物です。これは生物学の歴史で最大の出来事になるはずです。たった一つのプロジェクトのために数十億ドルの国家助成がつぎこまれるなんて、かつてなかったことです。そこへ個人の研究者がやってきて、長年そこに居座っていた連中をやっつけてしまった!気分が良いはずがありませんよ。」
   [...]
シュピーゲル:「ゲノムプロジェクトは多大な希望だけでなく、不安も呼び覚ましています。あなたはそのことを理解しておられますか?」
ヴェンター:「なあに、一方には人間の生命について何がしか知りたいと思っている人間がおり、他方には真実から目をそらしたがる人間がいるということです。でも後者のケースでは、DNA配列を知ることが生命のすべてを知ることになるんだという誤った信念から、不安が醸成されているんです。[...]」
シュピーゲル:「ゲノムの情報力など、取るに足らないものだと?」
ヴェンター:「全然です。私自身の経験からも断言できますよ。私は自分のゲノムをインターネット上に公開しました。それを見て多くの人たちは『なんて恐ろしいことをするんだ!』って思ったものです。で、何が起こりました?何にもですよ。」
   [...]
ヴェンター:「[...]それはそうとして、いま私たちは、ヒトゲノムの解析のための新たな重要な道具を手に入れました。人工細胞です。これによって、従来まったく手つかずだった問題に答えることができるようになりました。」
シュピーゲル:「[...]バクテリアの全ゲノムを合成し、他の細胞に移植したんですよね。あなたの人工微生物はどんな具合ですか?」
ヴェンター:「いやあこれ、すごいですよ。冷蔵庫に入れて凍らせときます、後世の史家のためにね。」
シュピーゲル:「この細胞の遺伝子に、あなたは或る情報をひそませておきました。そのことについて、もう何か言ってきた人がいますか?」
ヴェンター:「ええ、これは世界初のEメールアドレス付きゲノムなんです。昨日までに五十人の科学者がコードを解読して答えてくれました。」
シュピーゲル:「新しい生命体の合成という行為は、多くの人たちに不安を呼び覚ましています。再三再四、あなたは『神様ごっこ』をしている言われています。」
ヴェンター:「たしかに不安を感じるでしょうね。[...]でもここで問題になっているのは、神の力ではなく、科学の力です。[...]」
シュピーゲル:「多くの科学者にとって、信仰というものが排除されるわけではありません。たとえばフランシス・コリンズ氏は…」
ヴェンター:「コリンズが信仰と科学との間にどう折り合いをつけているかなんて、知ったこっちゃありませんよ。私にとってはこうです、信仰か、しからずんば科学か。この二つは両立不能です。」
シュピーゲル:「フランシス・コリンズ氏は本当の科学者ではないと?」
ヴェンター:「役人、とでも言っておきましょうか。」

 自分の全ゲノムをネット上で公開するというのもすごいが、メルアド付きの人工生命を作るとなると、もはや悪い冗談ではすまないような気がする。しかし思うにこれは、世間への挑発というよりは、自分自身に対する挑発ないしは鼓舞なのであろう。つまり新しい生命体を作るという行為に、氏自身も内心「不安」を感じていて、あえて過激な行為によって、それを払拭しようとしているのではあるまいか。
 ともあれこのような「神をも恐れぬ」行為が、人類の進歩の一半を担ってきたのはたしかである。おそらくヴェンター氏も、ニーチェのいわゆる「悪の効用」を体現している一人なのであろう。