断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

近況さまざま(3)

 新型コロナの影響で、前期の授業が始まったのは五月の半ば近くだった。いつもの年に比べて一か月遅れである。それまで自宅にいて何もしていなかったのかというと、無論そんなわけではなく、オンライン授業の実施に向けて準備が山積していた。授業が始まってからも授業ファイルの作成、課題の採点、メールのやり取りなど、とにかく忙しい毎日である。
 忙しいのは学生たちも同じだが、とりわけ新入生は大変という印象である。オンライン云々以前に、大学の授業は高校までとは勝手が違う。課題をやるにも、自分で考えたり調べたりしなければならない。顔見知りの教師もいない。同級生と知り合う機会もない。中にはパソコン操作そのものに不慣れな学生もいる。今回のコロナ禍で一番困惑しているのは、間違いなく新入生であろう。
 Meetを使ってリアルタイムの授業もやっているのだが、やっかいなのは相手の顔が見えないことである。むろんネット環境が完備し、履修者も少人数ならば、常時相手の顔を見ながらの授業も可能なのだろうが、現実にはなかなか難しい。通信環境の制限もあって、映像をずっとオンにするわけにはいかない。必然的に声のみのやり取りが多くなる。しかしそうすると、相手の反応は全く見えない。
 たとえばテレビやラジオのような、匿名の視聴者を相手にするものであれば、はじめから相手の反応など気にする必要はない。しかしMeetでは、ネットの向こうに生身の人間が坐っている。教師はその「生身の人」に向かって話さねばならないのに、相手の顔は全く見えない。ある意味これは電話のやり取りに似ているのだが、違いはこちらが一方的に話す時間がほとんどだということである。まるで受話器の口で、無言の相手に向かって話し続けるようなもので、正直かなりストレスのかかる状況である。
 小林秀雄がどこかで書いていた話だが、戦後間もない頃に来日した或るヴァイオリニスト(たしかハイフェッツだったと思う)が、演奏会後に「聴衆の耳が肥えているのは、演奏していてもよく分かった」と述べたそうである。当時は日本など、クラシック音楽にとっては「未開の地」くらいに思われていたのだろう。本場ヨーロッパからやってきた演奏家は「クラシック音楽を分かる人間が一体どれくらいいるのだろう?」と半信半疑で壇上に上がったに違いない。それがいざ演奏をしてみたら、案に相違して聴き慣れた聴衆が多かった。
 聴衆は演奏中に何か目立った反応を示すわけではない。ただ黙って演奏を聞くだけである。にもかかわらず壇上の奏者にとって、どんな種類の聴衆が聴いているかは一目瞭然なのである。これは観察というよりも一種の交感作用によるものだが、何かテレパシーのような神秘的な作用があるわけではなく、「情報」はあくまでも視覚を通して得られる。
 教師と学生の間にあるのもこの種の交感作用で、教壇に立っていると実にさまざまな「情報」が目に入ってくる。しかし同じことは学生にも当てはまるはずで、ふだん何気なく教壇に立っている私たちも、有形無形のさまざまな「情報」を学生たちにさらけ出しているわけである。
 受け取る「情報」とさらけ出す「情報」の間で、人間的コミュニケーションが成り立つ。そのようなコミュニケーションは、授業の進行を促進することもあれば妨げることもあるわけだが、しかしそうした「情報」のぽっかり欠落したオンライン授業は、単純に非効率なだけである。
 さて大学によっては、そろそろ対面授業を本格的に復活させる動きも出てきている。しかし秋からの季節は、新型コロナがいつ再び感染拡大を始めてもおかしくない。果たしてどうなるだろうかと思っていた矢先、ネットの記事で、重症化した患者の方の闘病記を読んだ。最近は新型コロナの報道もだいぶ下火になっているが、こういうものを読むと、あらためてこの病気の怖さを思い知らされる。世の中が元通りになるには、ちゃんとした治療薬が開発されるのを待つしかないのかもしれない。マスクにしたって、今は普通に入手できるようになったけれど、いつまた以前のような状況に戻るか分からない。今の内に秋以降の分を確保しておかねばならないだろう。それにしてもこの方は、重症化して人工呼吸器までつなげられたのだが、人工呼吸器を使用しない症例を、一緒くたに「軽症」と呼ぶあの区分法は、いい加減何とかならないものだろうか。
 余談だが私が、4月に数か月ぶりにマスクを目にしたのは、薬局でもスーパーでもなく、山の中の小さな集落の薬局であった。


大井川の河口


満々と水を湛えて大河の趣がある


砂州の向こうに見えるのは御前崎。ちょっと霞んでいるが、お分かりいただけるだろうか。