断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

近況さまざま(2)

 二月の初旬のことだが、盛りの梅の花を見に、浜松のフルーツパークへ行ってきた。広い敷地にさまざまな果樹を植えていて、その一角に観賞用の梅園と、実を取ることを目的とした梅園とがある。観賞用の梅園はさまざまな品種を集めていて、香りをかぎ比べて歩くだけでも楽しい時間を過ごせる。
 その帰途、とある飲み屋に入ってカウンターでくつろいでいたところ、同じカウンターの端に陣取っていた男の人が大声で話しかけてきた。どうやら個人事業主のようで、税金関係のセミナーについて話をしていた。話が一段落したとき、
「いやあ、昨日外国人相手に接待ゴルフをしたんだけどさ、今朝起きてから調子が悪いんだよ。俺、コロナかもしれんわ。」
 そう言って大声で笑った。私の隣(つまり男とは反対側)で話し込んでいた二人組が、ピタリと話をやめた。私も彼のほうへ露骨に不快な表情を向けてしまった。その人自身すぐに「失言」であったことに気づいたらしく、ふいに話をやめて黙り込んだ。彼が勘定を済ませてそそくさと店を出ていったのは、それから10分も経たない内である。
 さて今、仮にどこかの飲み屋で「俺、コロナかもしれんわ」なんてことを口走ったら、とてもただではすまないだろう。こんな冗談が冗談として通用するような空気が、二月の初めにはまだあったのである。それほど世の中の雰囲気は変わってしまった。ちょっと大げさな言い方をするならば、隔世の感があるくらいである。
 ところがこの間、わずか三か月しか経過していないのである。むろん起った出来事自体は大変なものであった。新しい伝染病がまたたく間に世界を席巻し、いたましいほど多数の犠牲者を出し、社会と経済に大打撃を与えた。そして、本当の意味での収束はまだ全く見えていない。が、繰り返すけれど、時間的にはさほど経過していないのである。
 おそらく後世の歴史家は、この三か月間を記述するのにほんの数行も費やさないであろう。だが、この時代をリアルタイムで生きている人間にとっては、とてもそれだけでは済まない。私たちは(少なくとも私は)ほんの三か月前の日本を、まるで遠い過去のように感じる。まさしく「隔世の感」である。原因は色々と考えられる。長く強いられている自粛生活もそうだし、そもそもライフスタイル自体が劇的に変化してしまった。気ままに動き回れていた「あの生活」は、今のところいつ戻ってくるか分からないのである。
 しかしそれらの原因と並んで挙げられるのは、三か月間に流されたおびただしい量の情報ないし言説であろう。時間的経過はそれほどでなくても、それをめぐる言説の洪水が、主観レベルでの「時間的距離」を生じさせている。
 たとえば二月ころ、新型コロナウイルスについてこんな言説が流れていた。いわく「感染力はそれほど強くない」、いわく「風邪のちょっと強い程度」、いわく「インフルのほうがよほど危険」、いわく「年寄りと持病持ち以外は安全」。これらの「情報」と五月の現時点での情報との間には、何と遠い距離があることだろう。またその言説と一緒にあった、当時のさまざまな事件や出来事も、何と遠くに感じられることか。
 情報や言説の氾濫はネット社会の功罪である。そこには「罪」だけでなく「功」もあるわけだが、しかしそれにしてもかくも夥しい言説の洪水は、時代の実相を見えづらくしている。
 たとえば今の政権は、失政や不祥事の多さ「にもかかわらず」八年も続いているのではなくて、その多さ「ゆえに」延命しているのだという意見がある。次から次へと目まぐるしく不祥事が起きるから、国民も麻痺していてすぐに忘れてしまうというのである。それはそれで一理あるのだが、しかしたとえば昔のように情報が、テレビや新聞で流されるだけだったら、選挙民もここまで簡単には忘却しないのではないだろうか。ある不祥事をめぐるおびただしい言説の洪水が、一つ前の不祥事を主観的に遠いところへ追いやる。いわば為政者に「忘却のヴェール」を恵んでやっている。
 ジャーナリストとは歴史の現場に立ち会う職業だと言ったのは、たしか立花隆氏だったと思う。そのようなリアルタイムの情報が、事後的に整理され、明確なパースペクティヴが付与された時、本当の意味での「歴史」が成立する。しかし私は思うのだが、今のような情報社会には、「報道」と「歴史」を媒介するような中間項が必要ではないだろうか。あくまで現在進行形の出来事を伝えるジャーナリズムと、長期的な俯瞰図を与える歴史学との間にあって、中期的な事象の経過を、客観的に整理して伝える営みである。
 目下のところそうした営みは、一部のライターによって散発的に行なわれている。だがそれは、本来的にはテレビや新聞といった大マスコミが受け持つべき仕事だと思う。というのも中期的な情報の整理は、一方では報道の自己検証という意味合いを持ち、他方では時の為政者に対するチェック機能という役割を担うであろうからである。


浜松フルーツパークの梅の花