断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

夏休み間近

 前期の授業もようやくゴールが見えてきた。遠隔授業の準備や対応に明け暮れたセメスターだった。例年だと授業修了後すぐに信州あたりへ行って3、4日過ごすのだが、今年はさすがに行く予定はない。ただでさえ信州は電車では行きづらい。一番早いのは富士から身延線を使うことだが、それでも静岡から甲府までゆうに2時間半はかかる。甲府から松本までさらに1時間。そこから各地へ足を伸ばすにはさらに数時間を要してしまう。
 先日、ふと思い立って、 Googleストリートビューで社会人時代に住んでいた盛岡や北上の近辺を巡ってみた。大学卒業後、私はしばらく会社勤めをしていた。初めは北上、それからしばらくして盛岡へ移った。
 思えばあの時代は、自分の人生で一番出歩いていた時代であった。週末になるとバイクであちこちの温泉に入りまくり、冬はスキー三昧だった。登山はそれほどしなかったが、岩手山早池峰山秋田駒ケ岳などは登った。コロナで不自由な今の生活からしたら、まさしく夢のような日々だったわけだが、それでも無駄に時間を浪費していた感が否めない。当時は自分の進むべき道が分からなくて、ただやみくもに遊びまくっていたのだが、それにしたってあの頃はあの頃で、やれることやるべきことはあったのである。
 ふり返って今現在の不自由な毎日を思うとき、これはこれで色々と発見もあれば勉強もある。たとえば最近は、運動不足にならないように、自転車のかわりに歩くことが多いが、今まで気づかなかった景色が目に入るようになった。たとえば道端のちょっとした草花など以前はあまり気にとめなかった。自転車だといちいち立ち止まって見る機会が少なかったのである。
 しかしこれは私にかぎったことではないのだろう。今朝、ゴミ出しをした帰りにぶらついていたら、一人の男の人が、涼しい木陰のベンチに座り、ペットボトルを飲みながら読書していた。最近はこういう光景は珍しくない。元々は長引く自粛生活に倦んで自然の中へ出たのがきっかけだろうが、出たら出たで思いのほか快適であるのに気づき、やがて習慣と化したのであろう。
 私の家のすぐ近くに恰好の散歩道があって、以前はウォーキングやランニングをする人で賑わっていたのだが、コロナ禍の高まりにつれてめっきり人が少なくなった。代わりにちょっと離れた、自然豊かな道へと人々は移っていった。結果としてそちらのほうが、むしろ混むくらいになったのだが、それで人々が元の道へ戻ってきたかというとそうではない。多分これは単純な理由で、自然の中で走ったり歩いたりしている方が遥かに気持ちがいいからである。  
 私たちは体調を崩したり病気になったりした時、たとえば安物のジャンクフードを食べたいという気持ちをなくす。頭で考えてそうするのではなくて、いわば体が自然にそう要求するのである。日々のライフスタイルにもこれと似たところがあって、自分の体の自然な欲求に虚心に耳を傾けるならば、ごみごみした街中よりも自然の中へ行きたくのが「自然の理」なのであろう。ちょっと前に自転車でかなり山奥の道を走っていたら、驚いたことにウォーキングをしている女性に出くわした。下校途中の高校生が、あえて自然の中の道を自転車で走っているのも、今では見慣れた光景である。