断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

リイダア・オン・レコオド

 七月の間は例年になく長い梅雨が続いたが、八月になると一転して夏らしい天気になった。最近の数日は猛暑続きで、日中は35度を超える天気が続いてる。浜松のほうでは40度を超えた。夏は好きだが、さすがにこれでは外へ出る気にならない。
  仕方ないので昼は部屋にこもって作業をし、日が傾いてから山へ自転車で行く。作業中は音楽を聴くことが多い。最近はシューベルトの17枚組のCDを順々に聞いている。「Lieder on Record」というタイトルで、1898年(!)から2012年までのさまざまな録音を集めたものである。最新のデジタル技術をもってしても、さすがに100年前の音源はいかんともしがたいらしく、はじめの数枚はまさしく蓄音機を聴いている感覚である。
 古い録音を聞いていて面白いのは、「譜面に忠実に」という現代では当たり前のモットーが平然と破られているとことである。これは、楽曲の思いもかけない側面を取り出して見せることがある一方、ひどく通俗的な効果に堕しているケースもある。
 「譜面に忠実」にというのは、奏者が勝手に楽譜をいじってはいけないということである。個人の主観で音符を改変したり、演奏上の指示を破ったりしてはいけないということである。一見して客観的で中立的な態度に見えるが、しかしこのテーゼ自体、実は歴史的に形成されたものに過ぎない。
 例えばハイドンモーツァルトの時代には、原典尊重のルールはさほど厳格に守られていなかった。時代が百年下って19世紀の後半、楽譜の中に作曲家の指示がやたら細かく出てくるようになるが、裏を返せば「譜面に忠実でない」演奏が横行していたということであろう。 
 モーツァルトニ長調のロンド(k382)は私の好きな曲の一つで、 これまでたくさんの演奏を聞いてきたが、古いものになると平気で音符をいじっていたりする。ところがこれが案外イケるのである。これはなかなか考えさせられる問題である。というのもオリジナルの改変が日常茶飯事だった時代の作曲家は、そのことを前提に(少なくとも「当然起り得る」こととして)作曲していたとも考えられるのだが、しかしそうだするとモーツァルトを「譜面に忠実に」演奏するというのは、果たして「モーツァルトに忠実に」その音楽を演奏することになるのだろうかという疑問が生じるからである。原典至上主義のイデオロギーは、むしろモーツァルトの音楽の本来のありようを歪めてしまっているのではあるまいか。これは難しい問題である。モーツァルトが現代にタイムスリップしてきて、今の時代のオーケストラを聴いたならば、演奏技術のあまりの高さに驚嘆するであろう。だがその一方で、「もっと自由にやってもいいんだよ」と小声でそっとつぶやくかもしれない。