断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

近況と雑感(3)

 「ある人がどのような種類の人間であるかを知るには、その人の『笑い』を見ればよい。そのさい観察すべきなのは『何を笑うか』ではなく、『どのように笑うか』である。」 誰の言葉だったか失念してしまったが、これは掛け値なしの真実のように思われる。笑い方にはその人の「本性」がにじみ出ている。相手の人となりを知るには、その人の笑い方を見ればよい。
 だが一方で私たちは、意図的に「笑い方」を演じることもできる。卑劣な人間が邪気のない笑いをすることもできるし、神経質な人間が豪快な哄笑を装うこともできる。だから重要なのは、その人がふとした折にもらす笑いを観察することであろう。さりげない笑いのしぐさの中に傲慢さや小心さ、自分に対する自信のなさなどがのぞいていたりする。非常にしばしば見られるのは、「ふん」といった調子の、相手を小ばかにした軽いせせら笑いである。いっぽう誠実な人間の笑いには、どこか無邪気なところがある。あるいは「悠揚迫らず」といった鷹揚なところがある。

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 先日、仕事帰りに歌舞伎座へ行った。人生初の桟敷席での観劇だった。席の前には小さなテーブルがあって、一人ぼんやりと頬杖をつきながら観劇できる。飲み物を置いて好きな時に飲むこともできる。いわばそこはちょっとした「プライベートな空間」なのだが、そのことが観劇に独特の「質」を与えるのである。
 一般の座席にはプライベートな空間性といったものは存在しない。それはいわば舞台と「裸で」向き合っている。私たちは舞台と直接的に対峙し、舞台という巨大なスクリーンを眺めている。
 もっともそうした「スクリーン性」は歌舞伎ではそれほど強くはない。歌舞伎の舞台は自然主義的な演劇のように自己完結していない。「スクリーン性」はたとえば役者の「見得」のようなものによってしばしば中断される。最たるものは花道での演技であろう。花道でのパフォーマンスは舞台という「スクリーン」に亀裂を入れ、観劇体験を表象的なものから身体的なものへと移行させる。花道は役者を、いわば私たち自身の身体と地続きの空間へと引き寄せる。
 ところで桟敷席のプライベートな空間性は、そのような身体的な観劇体験というものを、多かれ少なかれ持続的に保持するのである。そこでは私たちは、舞台というスクリーンに「対して」あるのではなく、舞台という空間と「共に」存在しているのを感じる。別の言葉でいうと私たちは、「表象する自我」としてでなく「身体的な存在」として舞台を体験している。小さなプライベート空間としての桟敷席は、だから逆説的ながら一般席に比べていっそう舞台に「近い」ものなのである。