断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

「青山杉雨の眼と書」展(東京国立博物館)

 上野の国立博物館で開かれていた「青山杉雨の眼と書」展を観てきた。杉雨は「昭和から平成にかけて書壇に一時代を画した書家」(パンフレットによる)で、篆隷における個性的な仕事で名高い。
 私のような素人は、たとえば書の展示会などで書かれている文字が判読できないということがしばしばある。が、それでもそれが、単なる点や線ではなく、れっきとした文字であることだけは看て取れる。なぜこんなことが可能なのかというと、漢字というものが、絵画における点や線とは異なり、形象それ自体の中に「時間性」を含んでいるからである。
 なるほど絵画においても、たとえば抽象表現主義のようなものは、画面に「時間」の痕跡を残している。しかし漢字は、そもそも点や画などの形態そのものが時間的な契機を含んでいる。たとえば私たちは、漢字の「撥ね」や「払い」を見れば、その線がどこからどこへ向かって書かれたかが分かる。漢字においては、すでに文字形態そのもの内に「時間」が刻印されている。
 私たちが筆を使って文字を書くとき、そのような「時間」を、筆の動きによって、さらにもう一度時間化するのである。したがってそこには、二重の時間化が介在することになる。絵画における筆の痕跡と書におけるそれが決定的に違うのはこの点であり、私が展示会などで、何という文字が書かれているのか分からないにもかかわらず、「文字が書かれている」と感じるのは、そこに絵画の描線とは異なる「二重に時間化されたもの」を認めるからである。
 ところで篆書体の文字は、いわゆる楷書や行書などの一般的な漢字とは異なり、絵画の描線のような中立的な線や点から成り立っている(篆書には撥ねや払いがない)。つまり「形態としての時間性」が欠けている。それは西洋のカリグラフィーに似て、文字というよりもデザインのような印象を与える。
 だから書家が篆書の分野で仕事をするというのは、文字(漢字)的なものと絵画的なものとの境界領域で仕事をすることを意味する。しかも青山杉雨の仕事は、秦代のいわゆる小篆(印鑑などで普通に見かける篆書体)よりもさらに古く、金文から甲骨文字以前にまで遡るものだった。それゆえ彼のいくつかの作品、たとえば「戦士図・図象文字集成」や「古文曼荼羅」などは、「書」というジャンルを超えて、絵画の領域に片足を突っ込んでいる。一方「殷文鳥獣戯画」のような作品は、一見したところいかにも前衛的だけれど、ぎりぎりで「書」の内部にとどまっているように見える。しかしこの手の作品で最上のものは、何と言っても「萬方鮮」であろう。これは数多い杉雨作品の中でもとりわけ傑作の呼び声の高いもので、ほとんど「古典」と呼びたくなるような圧倒的な出来栄えである。しかし私は(作品の出来自体は劣るかもしれないが)最晩年の「書鬼」や「幻想」のような作品も好きである。そこには杉雨の、骨太であくの強い男性的な精神が、いわば裸の姿でくっきりと浮かび上がっていて、作者の生まの息吹に触れるような気にさせられるのである。