断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

『タッチ』と『のだめ』

 先日、立ち寄った喫茶店あだち充氏の『タッチ』を見つけ、懐かしく読み返した。
 あまりにも有名な作品だが、ストーリーのあらましを述べておこう。主人公上杉達也は双子の兄弟の兄である。野球部のエースピッチャーとして活躍する弟と比べると、ずぼらな怠け者で、どうにもぱっとしない存在である。その弟が甲子園を目前にして事故で急死する。達也は野球部に入部し、弟の夢を受け継ぐかたちで甲子園を目指す。その過程で秘められていた才能を開花させ、人間的にも成長してゆく。
 ヒロイン浅倉南は美人で頭も良く、スポーツもできて、学校ではアイドル的存在である。達也はあまり女にもてないが、幼馴染ということでずっと南に好かれている。途中で強力なライバルも出現するけれど、南の思いが揺らぐことはない。
 要するにこれは、男が一方的に「いい思いをする」ストーリー設定だが、僕はこの作品を読みながら、何年か前に大ヒットした二ノ宮知子氏の『のだめカンタービレ』を思い出した。『タッチ』とは反対に、それは女が一方的に「いい思いをする」ストーリー設定だったからである。
 『のだめカンタービレ』のヒロイン野田恵は音大生で、天才的なピアノの才能を秘めているが、ずぼらな怠け者で、才能を開花できずにくすぶっている。一方ヒーロー役の千秋真一は金持ちのイケメンで、頭も良く、音楽の才能も抜群である。誠実で人望もあり、大学でもアイドル的な存在である。その上、有名ピアニストの息子という毛並みの良さまで備えている。野田はそんな彼と、偶然のきっかけで近づきになり、才色兼備のライバルを押しのけて、男の愛を射止める。その過程で彼女自身も才能を開花させ、大きく成長していく。
 まるで『タッチ』を裏返したようなストーリー設定である。違いは主人公の性別だけのように見えるが、しかし二つの作品は、物語的構造は似ていても、それの意味しているところは大きく異なる。
  男は能動性を通して女を欲望し、女は受動性を通して男を欲望する。これはいささか古臭い恋愛図式で、草食系男子が繁茂し、肉食系女子が徘徊する今の世の中には当てはまらないように見えるけれど、さしあたりこの古典的命題から出発することにしよう。ここで女の受動性とは、実際の恋愛シーンに限られず、外的状況への態度も含まれる。たとえば「玉の輿願望」などといったものがそれに相当する。そのさい出会いが偶然か必然かという区別は、あまり意味がない。「赤い糸」に導かれた出会いは、現実の出来事としては偶然的かもしれないが、運命という観点からすれば、必然的なものだからである。
 『のだめカンタービレ』という漫画は、そうした「受動性としての女の欲望」を如実に反映している。ヒロイン野田恵は、「たまたま」千秋真一と同じマンションの隣の部屋に住んでおり、「たまたま」彼が酔いつぶれて部屋の外に倒れているのを介抱し、「たまたま」同じ指導教官についた彼とデュエットの課題を与えられ、「たまたま」パリという留学先を同じくし、最後には男と結ばれる。言うまでもなくこの「たまたま」は、「赤い糸」に導かれた「たまたま」であって、運命的な必然性が現実レベルで偶然性として現象したものである。
 『タッチ』のほうも、主人公上杉達也は「たまたま」幼馴染というだけで浅倉南と結ばれる。物語の構造そのものは『のだめ』とそっくりだが、ここでは偶然の幸運は、受動性の願望を満たすものとしては機能していない。むしろこれは、男における能動性の欠落という現代的事態と深く関係している。
 恋愛感情は心の最も保守的な層にある。思想的には進歩的な女性が、実際の恋愛では驚くほど保守的な心の動きを示したりするのはそのためである。同じことは男についても当てはまる。現代男性の草食化がいかに進行しようとも、「男は能動的でなければならぬ」という観念は、なかなか消えてなくならない。一見したところ能動性を捨てているようでも、心のどこかでその観念を引きずっていたりする。これは一種の分裂状態で、精神分析的にいうと、エスの願望と超自我の命令との間で、自我が引き裂かれた状態なのである。
 幼馴染の男女が、自然の成り行きで恋人になるという物語は、そうした分裂と葛藤を回避するための装置(より正確にいうと、回避の願望をフィクションレベルで満足させてくれる装置)なのである。なぜならばそうしたシチュエーションでは、そもそもの初めから男が能動性を発揮する余地がなく、したがって能動性をめぐる心的葛藤や分裂も、構造上、存在しえないからである。幼馴染という設定は、最近のアニメや漫画でしばしば使われているようだが、おそらくそれは、能動性をめぐる現代男性の無意識的葛藤を反映しているのである。『タッチ』はそうした現代的状況を先取りした作品だったのであろう。
 『のだめ』は昔ながらの女の欲望を反映し、『タッチ』は現代的な男の状況を反映している。しかし幼馴染という設定が、能動性をめぐる心的葛藤の回避装置として必要だということは、能動性への無意識的要請が、未だに根強いものであることを意味している。つまり見かけとは裏腹に、ここでもやはり古い恋愛観念が支配的なのである。その意味で両作品は、あたかも論理学における対偶命題のように、同じ一つの思想を表現しているといえるかもしれない。
(この記事は2022年9月に改稿しました。)