断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

『おしん』と偶然

 テレビドラマの『おしん』について、もう一つ書こうと思いつつ先延ばしになっていたものがありました。今回はその記事です。

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 小説に比べると戯曲では、「偶然」が極めて多用される。街角でたまたま仇敵と出くわすとか、恋人のことを思っているとそのタイミングで訪ねてくるとか、こんなことは小説では普通起こらない。しかし戯曲では常凡の手法である。
 戯曲で偶然が多用されるのは、戯曲が小説よりも形式的制約を多く持っているからである。限られた舞台空間、限られた上演時間という制約をもつ演劇作品は、事件が自然に起こるのを待っていたら成り立たない。その一方で、偶然の出来事による事態の急な転換、登場人物の緊張や混乱、破局や大団円へ向けての目まぐるしい展開などには、プロットを引き締め、きびきびとした動きを与えるという美的効果もある。実は小説にも、あえて偶然の出来事を多用し、似たような効果を狙っている作品もあるのである。
 『おしん』でも、現実ではとうていありえないような偶然がしばしば起こる。だがこの作品は、舞台で上演される戯曲ではなくてテレビドラマである。しかも長さは総計70時間を超える。時間的空間的制約という点では、戯曲よりも小説にはるかに近く、その意味では偶然を多用する必要はない。『おしん』が偶然を連発するのは、むしろ漱石が新聞連載小説について述べているような読者の好奇心の問題、「読んでもらうには毎回見せ場を作らねばならない」という要請によるのだろう。
 以上のような作品の形式面の問題とは別に、内容面に関連した「偶然」の問題がある。おしんの初恋の相手で、相思相愛の関係でもあった浩太という男がいる。二人は結局結ばれることなく、おしんはしばらくして別の相手と結婚してしまう。日本橋で羅紗問屋を営んでいた龍三である。
 龍三と浩太はいろんな意味で対照的である。龍三はイケメンにして伊達男、社交的で太っ腹なところもあり、女にモテる要素に事欠かない。と言って不誠実な遊び人タイプではなく、女性への思いやりも理解ももっている。その反面、短気で見栄っ張りなところもあり、つまらないプライドを「男の夢」と称するなど、ある種の俗物根性を免がれていない。彼は男の長所と短所、美徳と悪徳、強さと弱さをあわせ持った存在である。
 これに対して浩太は、俗物臭が微塵も感じられない存在である。彼は貴族院議員の息子で、社会的にも金銭的にも何一つ不自由のない身でありながら、貧しい小作のための農民運動に身を投じる。誠実で情熱的で、強さと優しさをあわせ持つ行動家である。知性も教養もあり、その気になれば商売も上手くやってのける才覚の持ち主でもある。おしんをいつも遠くから見守り、しばしば救いの手を差し伸べる。
  龍三は男という生き物の現実を、浩太は理想の男性像(おそらくは作者にとっての)を代表しているのである。おしんとの馴れ初め一つをとっても、二人は対照的である。浩太は酒田の砂丘で「天から降って湧いたように」突然おしんの前に現れ、二人は激しい恋に落ちる。一方の龍三は、髪結いの仕事をしていたおしんに、贔屓の客を通して近づきとなるが、はじめは片想いに過ぎず、おしんは全く興味を示さない。それでも龍三は押しに押し、口説きに口説いておしんをモノにする。
 おしんと浩太は「偶然に」出会う。二人はその後もいたるところで「偶然に」邂逅する。だがこの偶然性は、必然性の欠落というネガティブなものではなく、人為を超えた運命的な結びつき、いわゆる「赤い糸」によるものである。(作中でもそのように示唆されている箇所がある。)それはある種の必然性に属しているともいえる
 これに対しておしんと龍三の結婚生活は、どこまでも努力の賜物である。二人は意志的な努力と辛抱によって障害を乗り越えて行くが、しかしこれは世の多くの夫婦が辿る道であり、男女の現実でもある。とはいえ二人の関係は、努力によってだけ進行していくわけではない。そこには別の意味での「偶然」も介在してくる。
 結婚してしばらくすると、龍三の店は不景気の影響で経営の危機に陥る。なんとかそれを乗り越え、新たに子供服の生産に乗り出そうと工場を作るが、その落成祝いの当日に関東大震災に見舞われ、全てを失う。二人は龍三の実家がある佐賀へ行くが、激しい嫁いびりに耐えられなくなったおしんは、密かに逃げ出して東京へ戻ろうとする。ところが龍三に見つかり、もみ合いになった挙句、負傷して右手に障害を残してしまう。結局おしんは話し合いの末、龍三を佐賀に残したまま東京へ出る。二人は離婚の危機を迎えるが、おしんは辛抱強く待ち続け、再び一緒に生活できるようになる。
 このように二人の積み上げてきた努力は、何度も「偶然の不幸」に見舞われ、そのつど灰燼に帰する。この「偶然」は浩太との間にあるものと対照的である。浩太との出会いや再会は、人為を超えた運命的僥倖としてやってくるが、おしんと龍三にやってくる偶然は「不条理」と呼ぶしかない不幸や不運である。が、そのような不条理こそ人生の実相なのであって、その意味では男の現実を代表する龍三という存在に、降るべくして降ってくる運命だとも言えよう。
 しかし二人に降りかかる不運は、次第に変質して行く。鳥羽でおしんと一緒に魚屋を始めた龍三は、軍部と組んで濡れ手で粟の商売をし、隣組の組長になって戦争推進に加担するが、敗戦とともに行き場を失い、自決する。おしんおしんで、夫や息子たちの軍国主義的な行動を止められず、長男を戦争で失い、軍部に融通してもらっていた家を元の所有者に取り返され、身一つで投げ出される。
 これらの不幸は、関東大震災の時のそれとは明らかに違う種類のものである。それは理不尽な不条理というよりは自業自得であり、身から出た錆である。なぜこのような変質が生じたのだろうか。
 佐賀から東京へ戻ったおしんは、ふたたび髪結いの仕事を始めようとするが、龍三とのもみ合いで負ってしまった手の障害のために、もはや髪結いの仕事ができないことに気づかされる。彼女は東京を離れ、山形の実家、そして酒田へと向かう。そこでかつて世話になった加賀屋の援助のもと、料理屋を始めるのである。店は繁盛するが、荒くれた男たちを相手とする商売は一筋縄ではいかない。そこへ「偶然に」農民運動で酒田にやってきていた浩太が訪れる。浩太はおしんのことを心配し、鳥羽の親戚を紹介して、おしんにそこへ行くよう促す。結局おしんは料理家の商売を諦め、酒田を去って鳥羽へ向かう。
 それまでも浩太は、おしんを遠くから見守っていたが、文字通りそれは「見守る」だけであって、彼女の人生に積極的に介入することはなかった。その介入がここで初めて起こったのである。別の言い方をすると、「おしんー浩太」という人生の系が、「おしんー龍三」の系にはっきりと交差し始めたのが、このおしんの鳥羽行きという出来事なのである。以降、おしんに降りかかる苦難や試練は、ある種の必然性の相を帯びてくる。それまでは理不尽で不条理な災禍に過ぎなかったのが、「自業自得」という、曲がりなりにも理由を持った不幸になってゆくのである。
 夫と長男を失い、住む家からも追い出されたおしんであったが、いくつかの幸運にも恵まれて商売を立て直し、息子の仁の代になってスーパーマーケットを複数展開するにまで至る。しかし仁は、 長年世話になってきた浩太の息子の店を踏みにじるかたちで新規出店しようとする。おしんは猛反対するが、仁は聞き入れず、出店を強行する。ところがこれが大手スーパーの出店を呼び寄せる形になってしまい、逆に仁は倒産の危機を迎える。まさしく身から出た錆であるが、最後の最後に浩太が救済策を講じて倒産は免れる。
 すでに述べたように、鳥羽行きを境にしておしんの人生には、浩太の存在が現実レベルで介在してくる。スーパーを始めるかどうか迷っていたおしんに、踏ん切りをつけさせたのも浩太である。養子が陶芸家として独立するのに手を貸してくれたのも浩太である。そして最後に、スーパーそのものの存続を守ってくれたのも浩太であった。
 このような流れの中にドラマの結末部分を置くと、「おしんー龍三」という人生の系に、次第に「おしんー浩太」という系が介在し、最後はとって代わるという流れであるのがよく見えてくる。
 倒産を免れたおしんの一家は、酒田で世話になった加賀屋の人たちの眠っている墓へ墓参する。そこへ偶然、浩太がやってくる。 おしんと浩太は二人きりで海辺を散歩し、語り合う。
 おしんと一緒になれていたら、もっと違う人生を歩めただろうと言う浩太に対し、おしんは「別々に生きてきたからこそ、いつまでもいいお友達でいていただけたんですよ。これからは時々私の方へも遊びにいらしてください。 同じ思い出をあたためあえるのは、浩太さんだけになってしまいました。」と答える。浩太も「本当に誰もいなくなってしまいましたね。」と返答する。
 そこへ犬の散歩中の女が通りかかる。彼女は二人を仲の良い老夫婦と見間違え、「お幸せそうですね。どうかいつまでもお元気で。」という挨拶を残して立ち去るのである。