断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

高村光太郎の「人の首」

 あっという間に八月が終わろうとしている。今年はお盆の前後に長雨(というか豪雨)の時期があって、やっとそれが終わったかと思うと、夏も残り少なになっていた。あまつさえ新型コロナの感染爆発があり、あまり出歩けないまま秋が来てしまった。
 久々に記事を書こうと思い、何について書くか思案したが、 今回は高村光太郎の「人の首」 というエッセイについて書くことにした。青空文庫に全文が出ているので、末尾にリンクをつけておきます。

 私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んでいるからである。(中略)人間の首ほど微妙なものはない。よく見ているとまるで深淵にのぞんでいるような気がする。その人をまる出しにしているとも思われるし、また秘密のかたまりのようにも見える。そうして結局その人の極印だなと思わせられる。どんな平凡らしく見える人の首でも実に二つとないそれぞれの機構を持っている。内心から閃いて来るものの見える時はその平凡人が忽ち恐ろしい非凡の相を表わす。電車の中でも時々そういう事を見る。

 昔から顔は、精神的なものが肉体的なものに最も直截にあらわれている身体部位とされてきた。なるほど手や足など他の身体部位にも、各人の個性はあらわれる。だがそれは、あくまでも肉体的個性であって、精神との連関はむしろ間接的である。これに対して顔は、人の心を直接に反映している。
 しかしなぜ「首」なのだろうか。肉体における精神の開示を言うだけなら、「首」ではなく「顔」を問題にすれば済む話である。彼が彫刻家だったからだろうか。肖像画のように顔の表情だけを問題にするのではなく、首全体を制作するからなのだろうか。
 精神のあらわれとしての顔の中では、眼がその頂点というべきである。「目は口ほどに物を言う」のであり、眼は内面の動きを直接にあらわしている。だがそこから鼻や口などの部位へと移ると、直接性は薄れる。高村光太郎は首筋や顎、頤などにも関心を向けているけれど、これらは鼻や口よりもいっそう、眼から遠いものであって、顔の表情においてはほとんど周縁部というべき箇所である。首筋や項に喜怒哀楽の感情が出ることはまずない。そのかわりそこには、内面性が「沈殿」している。高村光太郎はこれを「閲歴が造る人間の美」と呼ぶ。彼が「首」を問題にするのは、単に造形的な興味によるのでなく、そのような「沈殿」を問題としたからであろう。

 人間の首には先天の美と、後天の美とがある。この二つが分ちがたくまじり合って大きな調和を成している。先天の美は言うまでもないが後天の美に私は強い牽引を感ずる。閲歴が造る人間の美である。私が老人を特別に好むのはこの故もある。 

 ハイネがこんなことを言っている。ゲーテの目は神のように不動であった。同じ不動を私はナポレオンにも見た。だから私は、ナポレオンが神であったと信じている、と。
 こうした言い方には、多分にレトリックや誇張が含まれているだろうが、そのことを抜きにしても、これを以下のような高村光太郎の言葉と並べてみると面白い。

近くではレエニンの首が無比である。レエニンの性格に関する悪口を沢山きくけれども、私はそれを信じない。彼の首が彼の決して不徳な人でなかった事を証拠立てている。野心ばかりの人に無い深さと美とがある。ナポレオンよりも好い。ナポレオンにはもっと野卑なところがある。

 絶頂期のナポレオンの眼は、不動の内面をあらわしていたであろう。だがそれは、彼の「現在」に過ぎず、眼という中心から離れて首全体を眺めれば、閲歴における様々な沈殿物が見えてくる。そこにはナポレオンの「野卑なところ」が認められる。高村光太郎が言いたかったのは、多分そういうことである。 
 一人の人間の人生行路が「首」に沈殿する。過去の閲歴が 「今ここ」に現前している。そのような「沈殿」は、形態的なものであるとともに、気配や雰囲気でもある。だから写真では伝えられない。

写真は人間の先天の美のみを写して後天の美を能く捉えない。(中略)後天の美を本当に認め得るのは活きた眼だけである。

 これは、まさしくベンヤミンのいうアウラであろう。写真はアウラを捉えることができない。だが絵画や彫刻ならばできる。彼が電車の中で人の首に感じる「異状な興奮」とは、単なる受動的な感情ではなく、能動的な制作欲でもあった。 

 電車の中であまり好い首の人に偶然逢うと別れるのに心が残る。思い切って話しかけようかと思う事が度々ある。女の人などは一生に二十日間位しかあるまいと思うような特に美しい期間がある。それをむざむざと過させてしまうのが惜しい。