断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

作中人物の同一性(『おしん』と『道成寺』)

 NHK のテレビドラマ『おしん』を見た。全編を通して見たのはこれが初めてである。あまりにも有名な作品だが、一応あらすじを紹介しておくと、貧しい小作農の家に生まれたおしんが、戦前から戦後にかけての激動の時代を、挫折を繰り返しながらたくましく生き抜き、最後はスーパーマーケットチェーンのオーナーになるというストーリーである。
 もちろんこんな書き方では、この作品の魅力は少しも伝えられていないわけだが、全部で70時間を超える長編なので、どのみち短い文章では紹介できない。時代設定は日露戦争直後から1980年代にいたる。戦前の小作農の悲惨な生活や戦中戦後の人々の困窮などは、今の僕たちからすると隔世の感がある。世の中の価値観も大きく変わった。例えば作中で、反戦的な脱走兵が共感をもって描かれているが、これなども今の時代に放映すれば、「右」の人たちの反感を買うかもしれない。
 時代設定からも分かるように、『おしん』は主人公の幼少時代から老年期に至る長い人生行路を描いた作品である。だから主役の女優も途中で二回代わっている。幼少期を演じるのが小林綾子、10代から40代にかけてが田中裕子、そして50代以降が乙羽信子である。ところでこの役の引き継ぎには、かなり問題があるように思われる。小林綾子から田中裕子へは良いとして、田中裕子から乙羽信子へのバトンタッチはかなり無理がある。年齢が離れすぎているというのもあるが、それ以上にキャラが違いすぎる。ネットで色んな人の意見を見てみたが、やはり僕と同じような違和感をもつ人は多いようだった。
 これはミスキャストではあるまいか?と思ったが、実は乙羽信子は、台本作者の橋田壽賀子が直々に指名したというのである。だとしたら、おしんという女性のイメージ(作者の中のイメージ)は、田中裕子ではなくてむしろ乙羽信子だったわけで、国内外で大ヒットした「おしん=田中裕子」こそ「ミスキャスト」だったことになる。たしかにそう言われてみれば、田中裕子の演技にもいくつかの箇所で違和感がある。ただしこの違和感は、役者と台本のミスマッチではなくて、台本そのものの欠陥、つまり人物造形の統一性や一貫性の欠如という可能性もある。これは実際に台本を読んでみなければ分からないだろう。
 とはいえ乙羽信子にバトンタッチした際の違和感も、ドラマが回を重ねるにつれて薄れていく。同じことは田中裕子の演技に感じた違和感についても当てはまる。やはり生身の肉体の「持続する同一性」は圧倒的な力を持っているのであって、ちょっとやそっとの齟齬や違和感など吹き飛ばしてしまうのであろう。


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 そんなことを考えながら、僕はふと能の『道成寺』のことを思った。『道成寺』の前シテ(作品前半の主役)は白拍子で、後シテ(後半の主役)は蛇である。白拍子の正体は、かつて蛇と化して男を焼き殺した女の霊であり、後シテではそれが「本当の姿」になって現われるのである。ところでこの場合、蛇と白拍子の連続性ないし同一性は、作中でどのように与えられているのだろうか。
 白拍子は鐘の中へ飛び込み、それから蛇の姿となって出てくる。しかし「中から出てきたもの」は「中へ入ったもの」と同じものに違いないというのは、単なる「理屈」に過ぎない。そのような理屈は、芸術作品の内的構造を語るに際しては、大して意味をなさない。ならば同一性は、演者の同一性によって与えられるのだろうか。なるほど前シテと後シテは同じ役者によって演じられる。しかしどちらも面をかぶっており、しかも女面と般若面で使い分けられているから、生身の肉体の同一性が前景化することはない。
 一般的な戯曲作品では登場人物の人物像は、 プロットの進行によって徐々に形成されてゆく。そのように形成されたキャラクターが、人物としての同一性を保証する。たとえばハムレットという男の人間像は、劇の進行によって形成され、やがて「同一的な個性」となる。ところが『道成寺』の前シテは、ほとんど舞をするだけの存在で、プロットの進行による人物像の形成というプロセスは、そこには介在しない。仮に白拍子が明確なキャラを持っていれば、蛇との同一性はこのキャラを通して与えられるかもしれないが、それは望むべくもないのである。
 前シテと後シテの同一性を与えているのは、人物のキャラの同一性でもなければ、演者の身体的同一性でもない。それは情念の同一性なのである。しかしこれについては、もう少し説明が必要である。
 Aという人物の怒りとBの怒りが「同じ」怒りであるという時、それは単に「怒り」という感情分類の同一性を示しているだけである。実際には二つの怒りは質的に異なっており、AにはAの、BにはBの、それぞれ固有の「怒りの調子」がある。同じことは他の感情、たとえば悲しみや喜びにも当てはまる。もしも白拍子と蛇が同じ一つの存在ならば、情念の「調子」も同じでなければならないだろう。逆に言うと、両者の情念が「同じ調子」で表現されるならば、両者の存在の同一性も保証されるに違いない。が、この説明でもまだ不十分である。 
 女人禁制の法要に紛れ込んだ白拍子は、乱拍子といわれる独特の緩やかな舞から、一転してテンポの速い急之舞を舞い、そのまま鐘の中へ飛び込む。落ちた鐘は僧たちの祈りによって再び引き上げられるが、女はそこから蛇の姿となってあらわれ出る。僧たちは蛇を調伏せんとし、とうとう女の霊は川へ身を投げる。これら一連の舞や音曲は、同じ一つの情調によって貫かれている。だがそれは現実の人間がもつ情念ではない。あくまでも芸術上の表現としての情調である。
 音楽の中にある感情表現、たとえばモーツァルトの「魔笛」の有名な「夜の女王のアリア」を考えてみよう。ここに表現されている「怒り」は、現実の人間の怒りとは全く異なる情調の色合いをもっている。いわばそれは、この世のどんな人間ももつことのない「怒り」であって、その意味で現実の人間感情を超越している。しかしそれは「怒り一般」というような抽象的なものとも違う。女王の怒りはあくまでも唯一無二の個性的なものである。
 音楽が表現しているのは感情なのか、それとも美なのかという問題は、古くからある問いである。たとえばハンスリックは、音楽の本質にあるのは感情ではなくて美だと言った。たしかに音楽の中に、現実の人間の怒りや悲しみと同じものがあるわけではない。が、だからといって音楽には単なる形式美があるだけだと言ってしまえば、それも言い過ぎであろう。そこには間違いなく形式美以上のものがある。それは生きた人間感情の延長にありながら、それとは異なる領域に属する何かである。
 『道成寺』で表現されているのも、これと同じ種類のものである。それは現実の女の情念ではないが、一般化された感情類型というわけでもなく、「超個人的な個別性」というべき層にある感情である。そしてその感情の、普遍的でありながら一回的でもある色合いが、同じ一つのものとして前シテと後シテを貫き流れ、両者の存在に同一性を与えているのである。



「鐘入り」のシーンは49:30頃