断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説3(坂口安吾「私は海をだきしめていたい」)

 安吾の「私小説」は、独特の分析的な文体で書かれている。「私は海をだきしめたい」もそうした「分析的私小説」の一つである。
 分析は物語の時間をせき止め、出来事の自然な継起を中断するから、ときに不自然で息苦しい印象を与える。
 だが、「私は海をだきしめていたい」は、そもそも物語的内容を持たない。物語が存在しない以上、物語の時間性と分析の非時間性の対立も存在せず、したがって分析的叙述の息苦しさも存在しない。分析ばかりで成り立っている「私は海をだきしめていたい」は、逆説的にも、風通しのよい自然な印象を読者に与えるのである。
 「私」は相手の女に肉欲しか感じないが、女は不感症である。二人の欲望はついに交わることがない。しかしそこにあるのは、男女の心理のすれ違いというよりも一種の共振運動、肉欲しか感じない男の精神の虚無と、肉欲を感じない女の肉体の虚無との不思議な響きあいである。



 私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出していた。満ち足ることの影だにない虚しさは、私の心をいつも洗ってくれるのだ。私は安んじて、私自身の淫慾に狂うことができた。何物も私の淫慾に答えるものがないからだった。



 こうした抽象的な男女関係が、同じく抽象的な分析的記述において示される。すなわち実存的な抽象性が、文体の抽象性の中に結実しているところにこの作品の魅力があるのであって、それは、末尾の印象的な海の描写へ収斂しつつ、一篇の散文詩のような玲瓏な印象を残すのである。


 私は谷底のような大きな暗緑色のくぼみを深めてわき起こり、一瞬のしぶきの奥に女を隠した水のたわむれの大きさに目を打たれた。女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な、もっと柔軟な肉体を見た。海という肉体だった。ひろびろと、なんと壮大なたわむれだろうと私は思った。
 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は海をだきしめて、私の肉慾がみたされてくれればよいと思った。私の肉慾の小ささが悲しかった。