断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

「高貴なる」日本人

 今、授業で東日本震災関連のドイツの雑誌記事を扱っている。震災直後の日本人のモラルの高さ、原発事故での作業員の自己犠牲精神などを、日本社会の強い共同体意識から説明し、背景として日本の歴史に言及する、といった内容である。
 これは、日本的な共同体主義と西欧的な個人主義の対比という、いわばありふれた図式に過ぎないのだが、私が面白いと思ったのは、こうした日本理解が、かつて経済摩擦に際して行われたものとは異なり、はなはだ両義的なものだということである。
 かつて日本企業は、その「前近代的」な体質によって、欧米企業から批判された。そう古い共同体的体質が、欧米企業とのフェアな競争を阻害しているというのである。
 今度の雑誌記事にあるのはそれとは違う。日本人のモラルの高さや自己犠牲の精神に、畏怖に近いものを感じつつ、それがヨーロッパ的な価値観とは異質だとして、差別視しているのである。畏怖と差別。実はこれは、かつてヨーロッパ人が非ヨーロッパの「高貴なる野蛮人」に対して抱いていたものとと同じものである。
 「高貴なる野蛮人」というのは、植民地時代にヨーロッパ人が非ヨーロッパ人に対していだいた類型的イメージで、「文明の害悪に毒されていないイノセンス」、「文明化されていないがゆえの高貴」というものである。
 これは「美しき誤解」である。そんなことは言うまでもないのだけれど、それが二十一世紀の日本に適用されたとなると、ちょっと皮肉な話になってくる。なぜといって今日の日本は、世界で最も「文明の害悪に毒された」国の一つだからである。
 「おとなしさ」や「礼儀正しさ」は、しばしば日本人の美徳として挙げられる。それは半ばは民族性や国民性のあらわれなのだろうが、一方でそれが、今日の日本および日本人の活力低下と結びついていることは否定できないと思う。低下の原因は、長引く不況とか、社会の階層化とか、それこそ色々とあるだろうけれど、その中には、高度消費文明の結果としての慢性的な倦怠感や無気力感というのもあるはずである。
 たとえば一昔前の小説を読むと、日本人が今よりずっと元気だったのがよく分かる。それに比べると今は、老若男女、人間がひとしなみに疲弊している。現代物質文明の末期症状としての「おとなしさ」。「高貴なる日本人」は、どうやら「高貴なる野蛮人」の対極に位置しているようである。