断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説4(川崎長太郎「鳳仙花」)

 川崎長太郎のいわゆる「抹香町もの」は、小田原抹香町の私娼街を舞台に、作者の分身川上竹七と娼婦たちの交渉を描いたもので、「鳳仙花」はその代表作である。
 海辺の物置小屋に浮浪者同然の生活を送る老作家竹七と、「東京本所生れの、いわずと知れた下積者の親」をもつ二十七歳の娼婦雪子。こう書くと何やら陰惨な、貧苦と愛欲の暗い小説世界が思い浮かばれるが、実際はその反対で、主人公の最下層の日常は、隠者を思わせる突き抜けた明るさをもっているし、雪子は雪子で境遇に超然とした、それでいてどこか古風なところのある女である。
 そんな、ある意味洒脱ともいえる世界が、言葉と言葉とをぎゅっと搾って作ったような引き締まったリズミカルな文体で描かれ、「鳳仙花」は実に艶のある、味わい深い小説に出来上がっている。これは嘉村礒多的な「私小説の極北」などではなく荷風的な小説、あるいは江戸の戯作文学の遠い末裔なのである。


 また、このごろの暑さでは、日中やけた屋根や、ぐるりのこれもトタン板のほてりが、夜分になってもなかなかひかず、小屋の中はムッとする空気で、風でもないことには、どうにもこうにも寝つかれない。かてて、泣きッ面に蜂の、南京虫どもが、竹七の血を吸いにくる始末、ここ四五日、彼は小屋の廂先に上げてある、小さな発動機船へ、近所のひと目を憚り、こっそりと布団枕を持ちこみ、煙草、マッチに、夜食の渦巻パンまで用意し、船の上で星空を仰ぎながら眠ることを始めていた。風のない夜でも、外は小屋の中とは、やはり較べものにならないほど涼しい。一挙両得の、南京虫の襲来する心配もいらない。さらさら、聞こえてくる波の音や、ちびた蟋蟀の啼き声など耳にしながら、いつか寝入るようであった。