断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説5(太宰治「ヴィヨンの妻」)


 言わずと知れた太宰治の名作で、こんなところで私がとり上げるまでもない有名な作品であるが、この小説の末尾近くにある「中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。」という箇所が、私はたまらなく好きなのである。
 夫の行きつけの店で働きはじめた「私」は、店で出会った客に無理やり体を奪われる。翌朝、いつもと同じように店に出てみると、夫がいて朝酒をやりながら新聞を読んでいる。誰もいない酒場の静かな午前。テーブルにはコップ酒が明るい日差しに輝いている。
 ここにあるのは、ほとんど映画の1シーンを思わせるすぐれた映像的な効果だが、しかしそれ以上に私は、ここに「人生」に対する作者の万感の思いがにじみ出ているのを感じるのである。それは小説テクストにこめられた意味的なメッセージというよりも、期せずして漏れたため息のようなものであり、「作者の意図」を超えたところに現れる作者自身の声であるが、その声の真実の深さに、私は心を打たれるのである。
 ちなみに私は、この小説を朗読CDで聴いたことがあるが、この場面の効果は目で読んだ以上に素晴らしいものであった。


 そうしてその翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。
 その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。
「誰もいないの?」
 夫は、私のほうを振り向いて見て、
「うん。おやじはまだ仕入れから帰らないし、ばあさんは、ちょっといままでお勝手のほうにいたようだったけど、いませんか?」