断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

教師の新学期

 また新学期が始まった。およそ二ヶ月ぶりである。
 いつものことながら、長い休みの後に仕事に出るのは気が重い。しかし久々に学生たちに会って話をすると、ちょっとだけ気が晴れた。私はあまり社交的な人間ではないが、学生と接するのは嫌いではない。
 自分自身の学生時代を振りかえると、中学生くらいまでは、先生とは「絶対的な大人」であった。「成熟した人格者」というのではない。十代の少年にとって、十年二十年の年齢差というのは、ほとんど絶対的な差のように感じられたということである。そういう印象は、自分が成人してもなかなか変化しないもので、卒業後、十年ぶりくらいに旧師に再会したりすると、妙にちぐはくな気分になった。こっちはもう「子供」でないのに、向こうは依然として「大人」なのである。こんなおかしなことがあっていいものか。
 しかし自分自身が教える側に立ってみると、今度は逆のことが起こるようになる。何年ぶりかで昔の教え子に会う。彼は働き盛りの立派な社会人になっている。その間、私はなんの成長もない。何だか自分一人が取り残されてしまったような、心もとない気分になる。教師という存在は、まさしく学生の人生の「一里塚」なのである。
 大学で教えはじめたころは、授業をやるだけで精一杯だった。だが、今ではよほど余裕もできた。そのためもあろうが、新学期に教室の新しい顔ぶれを見渡すと、彼らが「過ぎ去りゆく人たち」であるのを痛切に感じる。こんなことを感じるのは、齢をとって感傷的になったからなのか、それとも単に心がいつまでも未熟で感じやすいからなのか、そのあたりはよく分からないが、ともかく人生のはかなさのようなものが切実に迫ってくる。むろんそんな感傷は、また仕事が忙しくなってくればたちまち吹き飛んでしまうのに決まっているのだが。