断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

岡潔「私の受けた道義教育」より

 もう一つ、「私の受けた道義教育」(光文社文庫『春宵十話』所収)からの引用。 
 
 ところで、私自身どんな道義教育を受けたかふりかえってみよう。私が初めて道義教育を受けたのは数え年五つの時だった。これは祖父から受けたもので、一口にいえば「ひとを先にして自分をあとにせよ」という教育だった。いま考えてみると、数え年五つというのは自他の別がわかり、道義の根本がようやく教えられるようになる年ごろなのだから、祖父の教え方は理屈に合っていたと思う。祖父は私が中学四年のとき亡くなったが、それまで十何年という長い間、これ一つだけをしつけられたように思う。この祖父は私財をなげうって隣の大字との間にトンネルを掘り、道をつけるといった事をやり、後に橋本市の真中に頌徳碑を立てられたような人だったから、祖父のいましめと行ないとの間に矛盾がなかった。この点で有効ないましめだった。
 父からは、いわゆる道義ではないが、これに似たものを植えつけられた。父は初めから私に学問をやらせるつもりで、このため金銭の勘定はいっさい私にさせなかった。ほしいものがあったら理由をいわせて自分で買ってくるというふうだった。私は経済的な条件はちっとも苦にならないが、これは全く父のおかげで、学問をするのに非常に役立っている。学者が本当にほしいのは経済的な優遇ではなくて心の自由であり、経済的な条件が気になるようならそれだけ気も散るし、心の自由もそこなわれるわけだ。経済的条件をよくするためのアルバイトなどをしなくてすんだのは父のおかげである。


 この道義教育については、小林秀雄との対談の中でも言及されている。

私は数え年五つの時から中学四年のときに祖父が死ぬまで、他を先にして自分を後にせよというただ一つの戒律を、祖父から厳重に守らされたのです。それからのち数学をやっておりますが、数学の研究に没頭しておりますときは、自分のからだ、感情、意欲という意識は全くないのです。(新潮文庫『人間の建設』より)


 さてその若き日の岡潔が、湯川秀樹の自伝の中にちらりと出てくる。

(京大理学部で)微分積分の演習を担任していたのは、岡潔という若い講師であった。長兄の芳樹と三高で同級だったので、岡先生のうわさは、早くから聞いていた。大変な秀才 ― 記憶力が恐ろしく強いという意味での秀才であると同時に、天才的な推理力を持った人だという評判だった。
 岡氏の身なりは、しかし、大学の先生らしくなかった。背広の腰にきたない手ぬぐいをぶらさげている所は、まるで三高の応援団員みたいであった。入学早々出された演習問題が、また恐ろしく難しかった。学生の知識の程度など全く無視したような問題であった。私たち学生は最初、途方にくれたが、そういう難しい問題にぶつかって行くことが、また私に一種のスリルを味わわせてくれることにもなった。(角川文庫『旅人』より)