断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

岡潔「春宵十話」より

 岡潔の「春宵十話」(光文社文庫『春宵十話』所収)からの引用である。


人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。

           ※

学問はアビリティーとか小手先とかでできるものではない

           ※

物理学科一年生のとき、講師の安田亮先生の講義を聞いたのが数学科へ移るきっかけになった。期末試験の先生の出題は二題とも応用問題だったが、私のくせで、むずかしい方から取り組み、一題に二時間のほとんどを使ってようやく分かった。あんまりうれしくて「わかった」と大声で叫んでしまい、前の席の学生はふりかえるし、監督に来ていた安田先生にも顔を見られるし、きまりの悪い思いをしながら大急ぎで鉛筆をとった。このあとも試験があったが、とても受ける気がしないので、放り出して、ぶらぶら丸山公園に行き、ベンチに仰向けに寝て夕暮れまでじっとしていた。それまでずっと、変にうれしい気持ちが続いていた。これが私にとっての数学上の発見、むしろ証明法の発見の最初の経験だった。そこで、やれば少しくらいできるかもしれないと思って、数学科に転科することに踏み切ったわけである。

           ※

よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。(中略)私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。

           ※

こうして二か月で三つの中心的な問題が一つの山脈の形できわめて明りょうになったので、三月からこの山脈に登ろうとかかった。しかし、さすがに未解決として残っているだけあって随分むずかしく、最初の登り口がどうしてもみつからなかった。毎朝方法を変えて手がかりの有無を調べたが、その日の終わりになっても、その方法で手がかりが得られるかどうかもわからないありさまだった。(中略)ところが、九月にはいってそろそろ帰らねばと思っていたとき、中谷さんの家で朝食によばれたあと、隣の応接室に座って考えるともなく考えているうちに、だんだん考えが一つの方向に向いて内容がはっきりしてきた。二時間半ほどこうして座っているうちに、どこをどうやればよいかすっかりわかった。二時間半といっても呼びさますのに時間がかかっただけで、対象がほうふつとなってからはごくわずかな時間だった。このときはただうれしさでいっぱいで、発見の正しさには全く疑いを持たず、帰りの汽車の中でも数学のことなど何も考えずに、喜びにあふれた心で車窓の外に移り行く風景をながめているばかりだった。

           ※

数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。

           ※

フランスへ行ってからも二度ほど発見をやっている。(中略)もう一つはレマン湖のトノム村から対岸のジュネーブへ日帰りに見物に行こうと船に乗ったときで、乗ったらすぐわかってしまった。自然の風景に恍惚としたときなどに意識に切れ目ができ、その間から成熟を待っていたものが顔を出すらしい。そのとき見えたものを後になってから書くだけで、描写を重ねていけば自然に論文ができ上がる。

           ※

八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうしてもひとところうまくいかなかった。ところが終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうしたある日、おつとめのあとで考えがある方向へ向いて、わかってしまった。このときの分かり方は以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたときのように、いちめんにあったものが固まりになって分かれてしまったというふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった。だから宗教の修業が数学の発展に役立つのではないか疑問がいまでも残っている。

           ※

何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は文化とは何のかかわりもない。むしろ野蛮と呼ぶべきだろう。

           ※

理性と理想の差違は、理想の中では住めるが、理性の中では住めないということにある。

           ※

理想とか、その内容である真善美は、私には理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。

           ※

理想の本体、したがって真善美の本体が強い実在感である(こと)

           ※

理想はおそろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持になる。それは、見たことのない母を探し求めている子が、他の人を見てもこれは違うとすぐ気づくのに似ている。

           ※

いま私は十一番目の論文にさしかかっている。平均して二年間に論文一つの割合である。一日にノートを三ページ平均書いているので二年間に二千ページとなるが、これを二十ページの論文にするのだから、まとめられたものは百分の一である。自然のリズムに合わせればこれくらいの比率でよいのではないだろうか。

           ※

また、数学と物理学は似ていると思っている人があるが、とんでもない話だ。職業にたとえれば、数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある。これに比べて理論物理学者はむしろ指物師に似ている。人の材料を組み立てるのが仕事で、そのオリジナリティーは加工にある。