断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

岡潔のエッセイ

 二月も残すところ数日となった。この連休は雨のち晴れで、気温もだいぶ高くなった。梅の散るのが早いのは残念だが、春が身近に迫っている。いつもなら心楽しい季節だけれど、今年はそれどころではなくなってしまった。新型コロナウイルスの問題である。
 実をいうと私は、ちょっと前まで大したことないと思っていた。春節の観光客受け入れをストップしないと聞いたときに「ひどい」と思ったくらいで、二月に入っても呑気に温泉へ出かけていたりした。
 二月の十日頃、静岡空港の中国便がストップされた。その直後、このウイルスには再感染の可能性があって、二度目三度目の感染で重症化するらしいという情報を目にし、初めて事の重大さに気づいた。本当かどうかは分からないけれど、本当だったら大変なことである。感染拡大にストップがかからないからである。武漢の状況も日に日に悪化していて、目を覆いたくなるような惨状が伝わってきていた。
 その間、日本政府の対応のまずさは、皆さんもご存知の通りである。巷でも一週間前くらいまでは、このままでは日本でもパンデミックが起こる、いやそうはならないと意見が入り乱れていたが、連休中はネットで「なかなか検査してもらえない」と怒りの声が飛び交っていた。
 私のような素人は、真偽不明の情報をもとに色々と推測するしかないのだけれど、何よりも分からないのは武漢の状況である。一体何があれほどの惨状をひき起こしているのか。医療崩壊の結果か。再感染の問題か。ウイルスの変異か。他臓器への影響か。
 話はちょっと飛ぶけれど、ブログで猫の記事を書き終えて、次は数学者の岡潔のエッセイを題材に、何本か記事を書こうと思っていた。ちょっと前に彼のエッセイ集を読んで面白かったからである。その中にこんなくだりがあった。

 太平洋戦争が始まったとき、私はその知らせを北海道で聞いた。その時とっさに、日本は滅びると思った。(中略)ところが、戦争がすんでみると、負けたけれど国は滅びなかった。その代わり、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちに食糧の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。私にはこれがどうしても見ていられなくなり、自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。(中略)これが私が宗教の門に入った動機であった。(「宗教について」より)


 今回の新型コロナウイルスの災禍で、日本が滅びるようなことはさすがにないだろう(と思いたい)が、今の政府の動きを、第二次大戦時の日本とオーバーラップさせて見ている人は多いのではないだろうか。あの時も日本は、メンツや目先の損得勘定にこだわって、一方では情報を隠蔽し、他方では有効な決断を下せないまま、ずるずると後退戦を続け、最後は国民を破滅の淵にまで追いやってしまった。時代錯誤の人命軽視まで酷似している。
 むろん違いもある。たとえば今の日本の官僚組織は、七年間もトップの顔色を窺いながら仕事を続けてきて、ある種の機能不全に陥っているのではないだろうか。それでこの緊急時にうまく立ち回れないのではないだろうか。多くの国民が現政権を支持してきたのも、プロパガンダで洗脳されたのではなくて、自己利益に合致しているとか、政治的イデオロギーに共鳴しているとか、あるいは単に政治に無関心であるとかであろう。一方で政治モラルの腐敗は当時の比ではない。むろん政治に腐敗や悪はつきものである。だが政治が悪を、あたかも切っても切り離せぬ影のように引きずっているのと、悪が「政治」として大手を振って歩いているのとでは、雲泥の差がある。
 こういう状況ではあるけれど、岡潔についても少しずつ書いていきたいと思っています。どうか気長にお付き合いください。