諸想、群がり起って
新しい記事を書こうと思いつつ、だいぶ間が空いてしまった。今日は冷たい雨が降ったりしたが、昨日は良い天気だった。気温もゆうに二十度を超え、半袖で歩き回れる日和だった。頬をなでる風はまるで五月のそれで、歩いていてぼんやり酔ったような気分になった。
川沿いの土手を乗り越えて水辺に出てみると、満々と水を湛えた川が、緑を吹き始めた樹の根を洗っている。水は前日の雨でうす濁っており、それがいかにも「初夏」らしかった。佐藤春夫の有名な詩を思い出した。
紀の国の五月なかばは
椎の木のくらき下かげ
うす濁るながれのほとり
野うばらの花のひとむれ
人知れず白くさくなり
椎の木のくらき下かげ
うす濁るながれのほとり
野うばらの花のひとむれ
人知れず白くさくなり
さて岡潔について書くつもりだったのだが、まとまったものを書こうとすると、なかなか大仕事なのに気付いた。これは相当に骨の折れそうな作業なので別の機会に回すことにして、今回はもっと気楽に、感想めいたことを書くことにしたい。
「片雲」というエッセイにこんなくだりがある。
前世紀にリーマンという大数学者がありました。(中略)そのはじめての講演は、「幾何学の基礎にある仮説について」という表題のものでした。当時すでに大家であったガウスがこれを聞いて、帰りにその友人に語って、自分は生まれてから、きょうほど感激したことはない、といったといいます。
この論文は、私も『リーマン全集』で読みましたが、はじめ一、二ページ読むと、諸想、群がり起って、容易に先へ進むことができません。これとは限らず、リーマンの論文は、大なり小なり、みなそういう力を蔵しています。
私自身はもちろんリーマンの論文を読んだことはないのだが、「諸想、群がり起って、容易に先へ進むことができない」という意味はよく分かる。哲学の書物にも、そういう「力」を蔵しているものがあるからである。
話はちょっと飛ぶけれど、『巨人の星』にこんなシーンがある。
主人公・星飛雄馬は少年時代、筋力アップのために「大リーグボール養成ギプス」なるものをつけて過ごしていた。スプリングで作られた、上半身をがんじがらめにするギプスである。
あるとき彼は、そのギプスをつけたまま、当時高校生だった王貞治と「対決」する。当然彼は「蠅の止まるような」ボールしか投げられないのだが、それを見た王は「高性能のスポーツカーがわざとのろのろ走っているような」不気味さを感じるという話である。
「諸想、群がり起って」という反応を惹き起こす書物もそれと似ている。そこでは「文字として書かれている内容」を凌駕するような思考の圧倒的なパワーが、字面を通してひしひしと伝わってくる。そのさい「容易に先へ進めない」という現象が起こるわけだが、これは難しくてなかなか読み進めないというのではなく、書いてあること自体は明瞭であっても、文章の一つ一つに、作者の思考ののっぴきならぬ力が宿っていて、読んでいる人間の思考を否応なしに刺激するということである。