断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

広中平祐『生きること 学ぶこと』より

 もう一つ、広中平祐氏のエッセイ(集英社文庫『生きること 学ぶこと』)に極めて印象深いエピソードが載っているので紹介したい。氏が岡潔に出会ったのは大学院時代であった。二人の年齢差はちょうど三十歳なので、岡潔が五十代半ば頃のことであろう。奈良女子大に勤めていた彼が、京大に赴いて特別講義を行った。そのときの話である。

 私は岡先生のその時の講義を正確に記憶しているわけではない。だが、先生の話は、正直なところ私には面白くなかった。理由の一つは、内容が高邁すぎて、当時の私が数学の中でやっていたこととは縁がない、雲上の話がほとんどだったからだ。もう一つの理由は、数学を語られているのか、哲学を語られているのか、宗教を語られているのかわからないぐらい抽象的だったからである。
 「数学上の問題を解くには、方程式を書いてコツコツやってもはじまらない。仏の境地に達すれば、何だってスラスラ解けるものだ」こういう表現だったかどうか正確ではないが、確か先生はそういう意味のことをおっしゃったと思う。
 聴講していたほかの学生たちは、先生の口からほとばしる神秘的な表現、深遠な哲理に、ほとんど酔っているかに見えた。確かに先生の講義は、皆がかつて一度も聞いたことのない斬新な内容だった。知名度の高さにほだされていたこともあろうが、皆は何かの教祖を崇めるような目を先生に向けていた。

 けっきょく広中平祐は二回目の講義の途中で退出してしまった。「こういう先生の考え方についていっては、数学ができないと思った」からだという。じっさい岡潔は、弟子志願の学生に道元の『正法眼蔵』を読ませたり、禅寺で座禅を組ませたりしていたらしい。
 その後広中平祐はブランダイス大学に勤務したが、日本に帰国したおりに学会で特別講演を行った。テーマは後にフィールズ賞受賞の対象となった「特異点解消」である。入念に準備してのぞみ、「日本の錚々たる大勢の数学者を前にして」気合も入っていたという。講演が終わり質疑応答の時間に入ったところ、真っ先に立ち上がったのが岡潔だった。

 岡先生は、「広中さん、そんな方法では、問題は解けません。もっともっと難しい問題にしていくべきだ。あなたのような態度じゃ、問題は解けませんよ。」と断言されたのである。「そんな方法」とは、こうである。
 私はその時、一番理想的な問題はこれで、これはこういう形で解きたいが、今のところは欲ばり過ぎだから、これこれの条件をつけて、こういう形で解けたらいいと思う。しかしながら、それでも欲をいうように思えるから、もっと具体的な設定をして、これこれの段階までさがって、これを解ければ、ある程度役に立つだろう、そういう風に、問題を理想的な形から下へ下へさげる式で講演したのである。
 しかし、その方法では解けないと、岡先生はいう。私は表面には出さなかったが、内心ではムカッとしていた。先生は数々の業績を築かれた偉大な数学者かもしれない。しかしこの「特異点解消」の問題にかけては世界広しといえども、私くらい時間をかけている学者はほとんどいない。また、この問題に関しての業績もいくつかあげているという自負が、私にはあったからだ。だが、何にせよ、偉い先生なのでその場を取りつくろうようにして、私は無言で頭を下げた。
 すると岡先生は、こう言われたのである。「問題というものは、あなたのやり方とは逆に、具体的な問題からどんどん抽象していって、最終的に最も理想的な形にすることが大切だ。問題が理想的な姿になれば、自然に解けるはずですよ。」表現はこのとおりではないが、おおむねそういう意味のお言葉だった。
 私は「ご忠告ありがとうございます」と頭を下げたが、腹の虫は容易におさまらなかった。正直いって、何を勝手なこといいやがる、という気持ちだった。
 しかし、岡先生のその時の言葉は、少なくともこの問題を解く上では、的を射ていたのである。
 私は米国に帰ってから、問題に対する考え方を少し変えてみた。理想的な形にしてみたのだ。そして数カ月ほどかけた結果、ついに全面的な解決を見ることができたのである。