断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

近況―2016年7月

 夏に一か月ほど日本を離れることになった。主な滞在先はフライブルク。前回ドイツに行ったのが震災の前年だったので、ほぼ六年ぶりである。最近は気持ちが落ちこみがちだったので、気分転換になればと思っている。
 旅の準備にいそしんでいた矢先、ブックオフトーマス・マンの『ワイマールのロッテ』(望月市恵訳)を見つけた。もうかなり以前、学生時代にはじめてドイツに滞在するちょっと前に読んだ本だが、じつはこのときも、同じフライブルクに滞在したのであった。
 『ワイマールのロッテ』はゲーテの『若きウェルテルの悩み』のヒロインのモデルであるシャルロッテケストナーが、四十四年ぶりにヴァイマールで、ゲーテその人と再会したエピソードに拠っている。若きゲーテの悲恋のいわば後日譚である。

 
 シャルロッテはそれが彼であることを見わけ、そしてまた、それを見わけられなかった。―そして、そのどちらのためにも心を激動させられた。わけても彼女は、淡褐色の顔に黒くかがやいている目、ほんとうはそれほど大きいとは言えない目、右の目が左の目よりも著しく下にある目の特別に大きく見ひらかれた感じを一目で見わけたのであった。[……]ああ、ほんとうであった、シャルロッテは四十四年の生活を飛びこえて青春の日のあの目を一目で見わけたのであった!


 昔好きだった本が、今読むと何の興味も呼び起こさないこともあれば、逆に新しい感興を与えてくれることもある。またかつての感動が、ありありと等身大でよみがえってくることもある。それらは、とどのつまりは自分の中の変わってしまった部分と変わらずにいる部分とを確かめることでもあろう。
 『ワイマールのロッテ』再読の印象は第三番目のケースに近い。ここでその印象を逐一記すわけにはいかないが、かわりに私の好きだったシーン、小説の末尾でシャルロッテが、馬車の中で待っていたゲーテの幻像と言葉を交わすシーンから引用することにしよう。


 君にお別れと和解との言葉として心をこめて言わせてください。[……]かつて私は君という焔に身を焼きつくし、そののちもずっと君のために燃えつづけて精神と光とに変ろうとしているのです。転生こそ君の友人のもっとも愛するもの、私のもっとも本性をなすもの、私の大きな希望ともっともふかい欲求とです。[……]余韻の感情、予感の感情―感情こそすべてです。この世のすべての単一性にたいして目をひらき、目をみはることにしましょう―大きく明るく賢くみはることにしましょう。君は苦悩のつぐないをほしいのでしょうか?お待ちなさい、私は私の贖罪が鼠色の服をつけてこちらに馬を進めてくるのを見ます。そのときはウェルテルとタッソーの時鐘がふたたび鳴るでしょう。夜半の十二時の鐘が正午の十二時の鐘と同じに鳴るようにです。そして、神が私に私の苦悩を言い表す力を与えたという―この最初で最後ともいうべき事実だけが私にのこされたすべてになるでしょう。そのときこそ、去ることは別離に、永遠の別離になるでしょう。[……]愛するもろもろの姿よ、私の安らぎにみちた魂のなかで静かに休らえ。―そして、私たちがいつの日かふたたびともどもに目をさます瞬間は、どんなにかうれしい瞬間になることでしょう。


 ゲーテのさまざまな作品の巧みな引用から成り立っている。ちなみに最後の一文は『親和力』の末尾の一句(und welch ein freundlicher Augenblick wird es sein, wenn sie dereinst wieder zusammen erwachen.)から借用されたものである。