断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

モーツァルトの初・中期交響曲

 ここでモーツァルトの初・中期交響曲と呼んだのは、ウィーン時代より前に作曲された三十数曲であり、作曲年代からいうと8歳から24歳までわたるものである。この中には、小ト短調シンフォニーとして知られる有名な25番(K.183)や演奏されることの多い29番(K.201)、「パリ」と呼ばれる華やかな31番(K.297)などが含まれるが、ここではそれらとは別の「私の好きな」三曲を挙げてみよう。

 交響曲第6番ヘ長調(K.43)
 モーツァルト11歳のときの作品。はじめての4楽章構成の曲である。それ以前の曲では、さしもの神童モーツァルトの筆もアルカイックな無個性の中へ沈みがちだったが、この曲にいたってはじめて、一人の芸術家としての相貌を示している。すべての音符が生きた精神的媒質の中を動いている。迅速に明確に、のっぴきならぬ確かさをもって動き回っている。ことに美しいのは、わずか二分そこそこのメヌエット楽章。

 交響曲第18番ヘ長調(K.130)
 研究者の間では昔から評価の高いシンフォニーだが、一般にももっと聴かれてよい作品である。私見ではこれは、遠く後年の三大交響曲につながるような内容をもった作品だと思う。この前後に書かれた一連のシンフォニー(第14番~21番)を順々に聴いていくと、直前の17番とこの曲の間にあらわれる創作上の飛躍に驚かされる。これを聴くたびに私は、ふいに目の前に広大無辺な眺望が開けるような思いがする。しかしそれ以上に注目すべきなのは、作中のいたるところに垣間見られる涙の淵の深さであろう。これに比べると有名な小ト短調シンフォニー(25番)の「悲しみ」など、皮相で薄っぺらな涙の模造品のように思われる。ここではモーツァルトの精神のあのおそるべき繊細さが、ほとんど全幅の広さで展開されている。

 交響曲第28番ハ長調(K.200)
 これほど曇りのない明朗さが、そのまま精神の深みであるような作品をどう説明したらよいのだろう。
 芸術家、ことに19世紀におけるそれは「苦悩の特権者」だった。苦悩や情熱は「精神」の領分にある特権的な感情であり、喜びや楽しみは皮相な「官能」に属するものだったのである。「歓喜」が「精神」に属するためには、苦悩の業火を通らなければならない(たとえばベートーヴェンのシンフォニー)。しかし交響曲第28番にあるのは、ロッシーニ的な官能の悦楽ではない。それは夢や希望といったものの特殊な存在様式なのである。
 夢や希望は可能的な現実への関係性においてしか存在しえない。それは実現されないうちは、単なる可能態にとどまるし、逆に実現されてしまえば、もはや存在することはできない。
 しかし人生には、願望がその成就の一歩手前でせき止められ、内的な時間が無限に遅延されるような瞬間も存在するのだ。そのとき願望は、現実への関係という抽象的なものであることをやめ、目に見え手に触ることのできる、ひとつの具体的な存在と化している。日常性は捨象され、日々の生活感情はあたかも夢の中におけるような深さと広がりをもったものとして体験される。
 そのような感情の全き表現を、私はモーツァルトマンハイム時代の作品のいくつか(たとえばK.296のヴァイオリンソナタやK.311のピアノソナタなど)に見るのだが、交響曲第28番は、作曲年代は異なるものの、同じ精神の圏域に属している。かりに私が(何も知らずに)この作品をマンハイム時代の作品と聞かされたら、何の疑いもさしはさまずに信じたであろう。この作品は、ロマン派的なものから遠いと同時に、ロココ的なものからも遠いものである。