断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

春のニッポン

 新学期が始まった。何か月ぶりかで上野公園を歩き、盛りの桜の花を見ながら散歩した。大勢の花見客が行き交うのは例年通りだが、今年はそれにまじって外国人の観光客が目立った。実況中継をしている外国のテレビ局も見かけて、ちょっとびっくりした。
 静岡の住居の近くにやはり桜の名所があり、川沿いの土手に沿って数キロ、桜並木が続いている。先々週末に桜まつりがあったが、上野公園の賑わいには程遠く、中心からちょっと離れると人もまばらだった。そのまま上流へ歩いていくとほとんど人影はなくなり、大きな桜の木々がひっそりと、静かな春の日差しを浴びていた。たわわな花枝が川風に揺れ、はかなげな風情を放っている。賑やかな花見名所もいいけれど、個人的にはこういう眺めのほうがずっと好きだ。そもそもソメイヨシノという品種が、桜本来の野趣の美を表していないのである。ソメイヨシノが美しいのは、造花のような花盛りよりは二分咲き三分咲きのころ、さもなくば緑を吹きだした散りかけである。
 静岡の春は長い。今年は一月のはじめに梅が咲き始め、まるまる二か月も花期があった。盛岡出身の学生が「静岡には冬がない」と言っていたが、たしかにその通りである。本当の意味での厳冬期は静岡にはない。むしろ冬のはじめから春の兆しが懐胎し、それが時間をかけてゆっくりとはじけてゆく。北国の雪解けの季節も美しいが、私は静岡の春のほうを好む。季節のうつろいの微妙なあやを実感しながら一日一日を過ごすのは楽しい。身近な花々にかぎらず、遠くの山並みのようなものでさえ、芽吹きの季節に先立って不思議な生命の息吹きを放ちはじめる。見た目は冬枯れのままなのに、はっきりと緑の気配が感じられるのである。
 じつは私自身、一年ほど盛岡に住んでいたことがあるのだが、春の美しさは、盛岡よりは東京が、東京よりは静岡がまさっている。逆に秋の美しさは盛岡が格別である。あんな「燃えるような」秋を私はほとんど見たことがなかった。静岡の秋はつまらない。昨年などは異常気象のせいもあってか、ほとんど紅葉が見られなかった。
 サイデンステッカーがこんなことを書いている。

(前略)けれどもこの年、ミシガン大学を説き伏せて、一年二学期のうち、一学期だけ教えればいいということにしてもらった。コロンビアに来てからも同じやり方にしてもらって、ドナルド・キーン教授と交代で教えることになっている。秋の学期は私がニューヨークにいて、春の学期はキーン教授が受け持つのである。
 キーン教授が、日本に半年いるのなら秋のほうがいいと言ってくれたのはありがたかった。私は春のほうがずっと好きだからである。秋はどこへ行っても美しい。なるほど日本の秋も美しいが、ニューヨークの秋も美しいし、ミシガンでも秋はよかった。ニューヨークの春のことはあまり知らないけれども、ミシガンでは春は格別気持のいい季節ではない。ミシガンの春はほんのあっという間で、ある週末つづいたかと思うと、もう過ぎてしまうというくらいのものである。(中略)
 だが東京の春はことのほかに美しい。(中略)二月から五月にかけては、毎日心を決めかねて思い悩む。今日はどこの花を見に行くか、決心がつきかねるのだ。花を見て歩く季節も、私の場合は六月のはじめの菖蒲で終わる。(『私のニッポン日記』より)
 
 静岡の春は、東京の春のような植物園的な多彩さには欠けるが、いっそう輝かしく華やかで豊潤である。そして盛岡の春は「ほんのあっという間で、ある週末つづいたかと思うと、もう過ぎてしまう」というものなのであった。