断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説8(立原道造「長崎ノート」)

 「私の好きな小説」としたが、この表題は二重の意味で不正確である。
 第一にこの「ノート」は「小説」ではない。詩人立原道造が、自己の新しい境地を求めて長崎へ旅した折に記した、日記形式の覚書である。
 第二にこれは、「好きな」というよりは「好きだった」作品というべきである。二十歳のころ、私はこの「長崎ノート」を愛読していた。しかしその後、いつの間にか遠ざかってしまった。この作品のいたるところにある作者の観念的な夢想や情熱、それはいま読めばきっと、やりきれない気持ちがするだろう。そう思って読む気になれなかったのである。
 だが今回、ほとんど十数年ぶりに再読してみて、それが私の思い込みだったのに気づいた。「長崎ノート」は感動的な作品である。それは読者の年齢を問わない。このほとんど形而上的と呼びたくなるほどに透徹した感性のドラマは、若さや年齢などというものを超越している。
 今の私にとってよそよそしく思えるのは、むしろ彼の詩作品のほうである。作品としての評価や完成度は、むろんこちらのほうがはるかに高い。しかしその甘美で端正なリリシズムは、どこかよそ行きの綺麗ごとに聞こえてしまう。
 「長崎ノート」は、11月25日という日付の奈良薬師寺境内での記述にはじまり、帰京後の12月19日という日付で終わっている。山陰地方などを回りながら十日間かけて長崎へたどり着き、当初は長期間の滞在を予定していたものの、病を重くしてすぐにその地をあとにし、そのまままっすぐ帰京した。
 長旅を経て長崎にたどり着いた作者は、友人宅でこう記す。

 しかし、何かしら孤独がひしひしと感じられる。そのような孤独と共に、僕の悲哀は、切りたてのアルミニュームの断面のように、今はキラキラ光っている。時がまだ手をつけないままに、痛いくらいだ。(中略)
 荷のなかから束にしたおまえ(=作者の恋人)の手紙が出て来たときに、僕は心臓がしめつけられるようだった。おまえの手紙や古いノートがおまえをここまで呼びよせる。しかしそんなおまえの幻が一体何だろう!
 今、すべての風景も形や線を心のなかに失って、ただ深い根源でそれが僕にまで結合する。僕の悲哀にみちた心は希望をどこかに信じながら、形もなく溶け去ってここに横たわっている。空は夕ぐれてゆくが、南の国では夜の来るのさえおそいのではないだろうか。

 見知らぬ異郷の地で、いやがおうにも掻き立てられる悲哀の感情の鋭さを、「切りたてのアルミニュームの断面のよう」だという比喩の見事さ、的確さ。そして「時がまだ手をつけないままに」というこれも美しい副詞句のあとに、文法的には破格のまま「痛いくらいだ」という叫びのような一句をつなげる、文章の絶妙の呼吸。これほど真実な表現は、彼の全詩作品を見渡してもほとんど見当たらないように思われるのである。
 上にも少し書いたが、彼はこの時すでに肺病に侵されていた。この冬の長旅が致命傷となり、帰京後、3か月余りで他界する。24歳であった。

 夕方、熱をはかると、三十八度五分あった。――急に出たのではないらしい。疲れたとばかりおもっていたのが熱だったのだろう。病人になってしまって武医院に入院する。おそろしくばかばかしいことだ。そしてアスピリンをのんで汗をいっぱいかいて寝ている。なぜこんなところへ来ているのだろう。そしてなぜこうして寝ているのだろう。(12月5日、長崎にての記述)
                         
 僕は愛されてばかり生きて来た。―—本当にわがままに!愛されないことなんかゆめにもおもわなかった。いまここでどうだろう!だれも僕を知らない。知らない者を愛することなどだれにも出来ない。……僕はひとりぼっちだ。愛されることがいいことかわるいことかそんなことで僕はいっているのではない。僕はいま自分をここまでひきずって来たあわれな夢想にしかえしがしてやりたいくらいだ。それは何だったのだろう。(12月6日の記述)

 明るい昼間はずっと心も明るかった。――日がくれ近くなって来ると、心は幼児の胸のようによわよわしくふたたびたよりない。あまりにホリゾントを追憶のあちらに追いやるためにすべての可能性が僕にわすれられてしまった。(中略)明るい昼間に僕は自分のつくり出してゆく生のことを長いあいだ明るい思考で辿っていた。それがふたたびたそがれのなかにいつか道が失われてしまうのではないか。(12月7日の記述)

(前略)僕の生はもうおわりに近いのではないだろうか。不吉なおもいが僕を暗がりのなかで責め立てた。ときどき、それとは全く関係なしに自分の書きたいとおもっている作品が明るい美しい文体で読むように過ぎて行った。とらえられない、とらえようとしたら、あのいつ書く筈になっているのかわからない、あの作品は身をひるがえすだろう。(12月7日の記述)

 とうとう運命は星になる夢でもなかった。花になる夢でもなかった。青いランプをともしたいとねがう僕には、放浪癖はやはりなかったのだとおもう。かえってひとつの家をつくって、それのまわりに庭をつくり、それの内に家具をおき、つつましやかな愛情で、生活をきずくことにあるのだとおもう。(12月9日の記述)

 ねがってのさまよいではなかったとはいえ、さまよいはもうおわった。家郷のない者は家郷をさえつくらねばならない。その作り出す愛情の世界を信じるがいい。一切は克服せられるべきものであると同時に亦肯定せられるべきものだ。ここ以外に僕の出発はない。(12月9日の記述) 
       
 このノートもこれでやめよう。
 薬師寺の境内で書きはじめて、自分の部屋のベッドの上で書きおわる、しかもいくらかの余白をうしろにのこしたまま。……
 このノート一冊のあとに何も書くことが出来ない。まだこの旅の意味もわからないのだから。
 おまえがよんで、その意味を、しずかにみたしてくれたらいいとおもう。僕にとってはこの一冊のノートはあわただしいものだった。しかし苦しみや悲しみだけではなかった。僕はいまはかえりみない。ただまなざしを出来るだけ明るい未来に向ける。(12月19日、東京にての記述)