断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

山内志朗著『普遍論争』

 これはちょうど二十年前(1992年)に出た本で、四年前に文庫化(平凡社ライブラリー版)された。私が手に取ったのは後者のほうである。
 哲学思想関係の入門書の目的は、思想の見取り図を、初心の読者に示すことにある。しかし一方で、「思想内容を要約的に示すこと」は「読者の好奇心を刺戟すること」とはなかなか両立しがたい。哲学書の面白さは、個々の議論、すなわち結論へいたる議論のプロセスにあるのに対し、思想内容を要約的に示すというのは、肝心要のこのプロセスを飛ばすことを意味するからである。(たとえば小説でいうと「あらすじ」を紹介するようなものである。)結果として多くの入門書は、読者の興味を喚起するというよりは、あらかじめ興味をもっている読者が紐解く代物となっている。
 それはそれで十分に存在意義はあるのだけれど、私はこれとは別のスタイルの「入門書」もあっていいと思うのである。たとえば、多くの原典を引用し、読者と一緒にそれを読み解きつつ、作者の思考の運動そのものをたどっていくというスタイル。その場合、限られた頁数で思想家の全貌を紹介することは叶わないだろうが、それはそれで仕方ないことである。
 山内志朗氏の『普遍論争』は、まさしくそのような種類の入門書である。これは中世のいわゆる普遍論争をテーマにした本で、普遍論争の表層的な見取り図(一般的な哲学史に記述されているような説明)に異議を唱え、豊富な原典に寄り添いつつ、論争の深層部分を読み解いてゆくという代物である。一冊の本という分量上、普遍論争の全貌を網羅しているものではないが、「実在論唯名論ー概念論」という区分の問題性や、12世紀と13世紀の間に見られる断絶、普遍論争と「代表」の理論との関連など、多くの興味深い論点が提示されている。議論の道筋は決して平坦ではなく、引用される原典もお世辞にも簡単とは言いがたいが、逆にそれが、読者の好奇心を喚起する重要なファクターとなっている。一例が次のようなアヴィセンナの引用。


それゆえ、馬性は馬性以外の何ものでもないということになる。というのも、馬性はそれ自体では多なるものでも一なるものでもなく、可感的な事物の内に存在するものでも、精神の内に存在するものでも、馬性の中に含まれていて、可能態であったり現実態であったりするものでもない。そうではなくて、それ自体では馬性でしかないのである。ところで、一性というのは、馬性に付加される特性のことであり、馬性は、この特性によって一なるものとなるのである。同様に、馬性はこの一性以外にも自らに付与される他の特性を有している。故に、馬性とは、複数のものに当てはまる定義において捉えられた場合には、共通なものであり、特性や指定された偶有性とともに捉えられている場合には個体である。故に、馬性はそれ自体では馬性でしかない。(67-68頁)


 このような難解極まりない原典を、読者とともに読み進めつつ、普遍論争の隠された問題群を一歩一歩明るみに出してゆくプロセスは刺戟的である。小林秀雄は「難解な本を読む楽しみ」ということを言っているが、難しい思想内容を分かりやすく伝えることに啓蒙的な意義があるように、難しい哲学テクストを「難しさにおいて楽しむ」仕方を伝えるというのにも、啓蒙的意義はあるはずである。その意味でこの本は、思想哲学の入門書の一つのありようを示しているように思われるのである。