断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

批評と解釈


 東浩紀氏がどこかでこんなことを書いていた。
 1980年代に隆盛を極めたいわゆるポストモダン思想は、今日、批評のスタイルとしてはすでに過去のものとなっている。したがってポストモダン思想に対する批判は、過去の(たとえば浅田彰氏や中沢新一氏の)幻影に対する攻撃に過ぎないのだ、と。
 たしかに批評のスタイルとしてのポストモダニズムは、すでに過去のものとなっている。が、ポストモダニズム的な思考様式は、依然として様々な場面で機能し続けている。それは私たちの思考を無意識のレベルで方向づけているのである。
 たとえばある文学作品について、「多様な読みへ開かれた作品」などというとき、大体においてそれはポジティヴな意味で言われている。しかしちょっと考えてみれば分かるように、多義性というものがそれ自体で価値がもつわけではない。(仮にそうだとしたら、駄洒落にも文学的価値があるということになる。)
 私たちは、「多義的な作品=豊かな作品」という基準を何とはなしに受け入れており、そうした基準を、半ば無意識に使い回しているのである。たとえば古典作品について、それが長い年月を経ても色褪せないのは、古典がさまざまな解釈を許容する存在であり、各々の時代において、そのつど新しい「読み」が見出されてきたからだ、などという言われ方がする。しかしこういう見解は、作品の意味における量的多義性と質的多様性の取り違えの上に成り立っているのである。古典の豊かさとは、「複数の解釈可能性」によるものではない。(もしそうならば、一義的にしか解釈できない作品は、古典たりえないということになってしまう。)むしろその意味内容(言語的な意味内容)が、明快で透明であるにもかかわらず、多様な要素を内包しているような作品、単純な語句が無限に多くのイメージを分泌するような作品、要するに美的な内容が、言語的な意味を大きく凌駕しているような作品こそが、作品としての豊かさを備えているといえる。一個の作品の質的多様性とはそのようなものであり、それは量的な多義性、すなわち「複数の解釈可能性」とは似て非なるものなのである。
 作品解釈における「多義性」に価値をおく考え方の背後には、「自由な解釈は創造的な行為である」というイデオロギーがひそんでいる。自由な解釈を創造的とするイデオロギーの背後にはまた、「読者こそ作品の意味を作り出す主体である」というイデオロギーがひそんでいる。が、ちょとでも創造的な行為に関わったことがある人ならば、「自由な読み=創造的」という見解が、救いがたいほどナイーヴでロマンチックな考えであることに気づくに違いない。創造とは、自由で恣意的な行為などではなく、必然性と偶然性の間をたえず行き来する行為にほかならないからである。 
 仮に批評というものに創造的な機能があるとしたら、それは「自由な解釈行為」などとは全然別の場所にあるのだろう。そしてすぐれた作品が、つねに言語的な意味内容を超え出る存在である以上、批評が目指すべきは、そうした余剰部分を切り捨てて「解釈」という名の言語的命題を提示することではなく、むしろ積極的に余剰部分に関わり、言語によってそれを表現することであろう。「言葉で言い表せないこと」をあえて言葉によって表現しようとすることこそ、批評における創造的な機能であるように思われる。