断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

選挙とジャンケン


 いよいよ明後日が総選挙ということになった。例の「サプライズ解散発言」からあっという間の一ヶ月であった。
 どこかの政党の代表だか代表代行だかが、「候補者はジャンケンで決めればいい」と発言して物議を醸した。しかしジャンケンはともかくとして、籤で議員を選ぶというのは、それほど不合理なやり方というわけではない。たとえば、かつてヴェネチアでは、選挙と籤の二つを使って議員を選出していたそうである。すなわち「選挙→くじ引き→再度の選挙→再度のくじ引き」という風に、選挙と籤を組み合わせて議員を選んだのである。これならコネや情実、カネによる票の買収などの介在する余地がない。何よりも籤だけでなく選挙による投票も交えるから、何かの拍子でとんでもない政治家が勝ち残るという可能性も少ない。何よりも複数回の抽選を勝ち抜いた議員は「運」を持ち合わせている。貧乏神が国政にたずさわる恐れもないというわけである。
 実際、昔のヴェネチアはそれでうまく行っていた(繁栄していた)。つまりくじ引きというやり方には、それなりに合理的な根拠が認められるわけだが、現代の日本でこんな提案をしようものなら、たちまち爪弾きにされる。
 しかし多くの有権者だって内心では、「誰がなっても政治は変わらない」と考えているのである。それでも公党の幹部が、民主主義への侮蔑とも取れる言葉をあからさまに口にするのを聞くと、何となく穏やかでない気分になる。主権者である私たち自身が侮辱されたように感じるからである。
 民主主義という制度は一種の性善説の上に成り立っている。すなわち選挙民である国民が、合理的に考えて正しい判断を下すという前提をもとに選挙が行われ、国の代表者が選ばれる。これに対してファシズムは、大衆というものが本質的に非合理的な存在であるという前提から出発する。その根底にあるのは、徹底した人間侮蔑のかたちを取る一種の性悪説である。
 しかし現代日本の政治家だって、心の底では選挙民を侮蔑しているのである。たとえばあの街頭演説や選挙カーの宣伝である。私はあれを見るたびに、街角で手当たり次第に声をかけるナンパ師を思い出す。人間をモノ(票)としか見ていない点で、あれはナンパ師にそっくりだし、選挙が終われば「使い捨て」(=ヤリ捨て)であるのも全く同じである。せめて当選した暁には(それがダメなら次回選挙の冒頭にでも)いま一度街頭で、票を入れてくれた選挙民に頭を下げるのがマナーだと思うが、そういう政治家はいまだかつて見たことがない。
 そんなこんなで私は、どうしても選挙というイベントに距離を置いてしまうのだが、しかしこれにはもう一つ、別の理由がある。一票すなわち何十万分の一という権利を行使するためにわざわざ投票所に足を運ぶという行為が、限りなく自己満足に近い自慰行為に思えてしまうのである。