断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

米長邦雄氏を悼む

 将棋の米長邦雄氏が亡くなった。享年69。数年前からガンを患い、最近は具合も芳しくないという話をちらほら耳にしていたのだが、それにしてもあまりに早過ぎる死であった。昭和の大名人大山康晴やそのライバル升田幸三も、七十になるかならぬかで他界している。将棋指しというのは何か寿命を消耗するような職業なのだろうか。米長氏にしても、見た目はストレスのたまらない自由闊達な人生を歩んできたように見えながら、その実、人間の自然な生命力を損なうような生活を重ねていたのかもしれない。
 そんなことを考えていた折も折、氏の手になる雑誌の連載記事を目にした。(「棋士の愛した駒たち」、週刊現代、1月5・12日合併号)「編集後記」によれば、氏が亡くなる前に手渡していた残り二回分の原稿の一つということであった。テーマは「大山康晴の金」。


 史上最強の棋士は誰かと聞かれれば、「大山康晴」と私は答えることにしている。(中略)ときに、大山康晴68歳。ガンの病魔に冒され、すでに余命いくばくもなかった頃の順位戦だ。この時点まで、大山は44年間A級を守りつづけていた。途中、名人が18期だ。(中略)このときには、名人挑戦権をかけてA級順位戦を争うようになっていた。
 挑戦者を争うメンバーは20歳年下の米長邦雄、39歳年下の谷川浩司など。年齢差を考えると大山の途方もない強さが分かる。(中略)そして最終局、大山対谷川は大一番となった。年齢差、谷川の勢い、大山の体調から考えても、谷川の勝利を疑う者はいなかった。しかし結論から言えば、大山は谷川を倒し、プレイオフに進出したのだ。結局、惜しくも名人挑戦権は得られなかったけれども、プレイオフ当日の対局姿は鬼神が乗り移ったかのようだった。それでいて高僧が端然と座っているかのようでもあった。


 将棋に詳しくない方のために少し説明を加えると、将棋界には順位戦というものがあって、棋士のランク付けがなされている。A級はその最上位にあたり、文字通りトップ棋士たちがしのぎを削る。リーグ戦の勝者が名人挑戦権を手に入れる。挑戦権以上に熾烈なのが残留をめぐる争いで、現に米長氏も、A級から陥落したのを機にフリークラスに転出し、数年後には引退している。
 その意味で、44年間A級を守るというのは、およそ人間業とは思えないのだが、加えて68という歳で挑戦権を争うというのがまたすごい。野球でいえば、50歳を過ぎるまで現役でピッチャーをやって、最多勝争いをするようなものであろう。
 上に掲げた記事は、68歳の大山が、ガンと闘いながらA級順位戦を勝ち抜き、プレイオフ進出をかけて最終戦谷川浩司とぶつかった一局を取り上げたものだが、年齢といい、ガンとの闘いといい、筆者は大山を自分自身と重ね合わせて書いているように見える。(ちなみに大山は件のプレイオフの数ヵ月後、69歳で逝去した。)
 大山康晴という人は、ひたすら勝負に徹した棋士であった。将棋以外のことには目もくれず、棋士としてのキャリアと勝ち星のために人生を費やした。一方の米長氏は多芸多才の人である。将棋界以外にも交友の幅が広く、社会的にも華やかな存在だったが、棋士としてのキャリアでは同年代のライバル中原誠に大きく遅れをとった。若い頃から才能を認められ、大器と言われながらも、なかなか名人になれず、悲願の名人位についたのは49歳の時、じつに七度目の挑戦でのことであった。
 そんな氏が、人生の最後に、自分とはおよそ対照的な存在である大山康晴とおのれを重ね合わせていたのが印象的だった。おそらく氏は、迫り来る死を前に、生涯を振り返りつつ、多彩を極めた己が人生を、一将棋指しのそれとして総括したかったのかもしれない。ご冥福をお祈りしたい。