断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

老けメイク

 以前の記事に続き、テレビドラマの『おしん』について、もう少し書いてみようと思います。

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 老けメイクとは大河ドラマなどでお馴染みの技術で、登場人物を生涯にわたって、一人の役者が演じるときに用いるメイク技術である。たとえば二十歳から七十歳までの主人公を、同じ一人の役者が演じるならば、役者の顔を徐々に「老化」させねばならない。老けメイクはそのための技術である。昔は年齢ごとに別の役者が演じるのが常だったが、この技術の発達によって、一人の役者が演じるのが可能になった。
 『おしん』には、ヒロインのおしんと相思相愛でありながら、ついに結ばれることのない浩太という男が出てくる。彼はおしんと知り合ってから70年間、陰に日向に彼女を支え続ける。おしんは途中で役者が入れ替わるけれど、浩太の方はずっと一人の役者(渡瀬恒彦)である。当時30代後半だった渡瀬が、浩太の80代まで演じ続けるのである。
 老けメイクは技術的にはさほど難しくない。実際『おしん』は40年前のドラマだけれど、浩太は十分に老人らしい顔になっている。だが人が老いるのは顔だけではない。声や立ち振舞いを含めて、すべての面で老いる。そして言うまでもなく、心も老いる。しかし心が老いるとは、一体どういうことだろうか。
 私たちが感じたり考えたりしていることは、時々刻々、目まぐるしく変わっていく。だがさほど変化しないものもある。「性格」がそれである。たとえば「吝嗇」という性格は、昨日今日という短いスパンで変わるものではない。昨日会った吝嗇な男が、今日は太っ腹になっているなどということはありえないし、それどころか十年後二十年後も、かなりの確率でそうあり続けるだろう。
 心も生命の一部である以上、身体と同じように生命的なエネルギーを持っている。そしてそのエネルギーは普通、年齢とともに衰えてゆく。性格はそうした衰弱の運命を、ある程度は免れているように見える。
 心の内容は刻々と変わってゆくし、その変化はエネルギー的にも規定されている。年をとってエネルギーが枯渇すれば、思考や感情の動きも緩慢になってゆく。しかし性格は心の内容物ではなく、内容物を一定のパターンにおいて生み出し、方向づけてゆくものである。それは心的内容物の「鋳型」である。だからそれは、生命エネルギーに左右されにくいのである。
 しかし人間の心は、たえず変化する思考や感情と、あまり変化しない性格という、二つのものからのみ構成されているわけではない。二つの間には心的構えというものがあって、これが大きな役割を果たしている。心的構えは多くの場合、社会的役割や立場によって形作られる。たとえば医者の仕事を長年やっている人は、患者に接するときの態度が身についてしまうし、教師には教師の、会社員には会社員の、それぞれ固有の心的構えがある。
 心的構えは、当初は意図して身に着けるものだが、やがて本来的な性格と融けあい、それと見分けがつかなくなる。見分けがつかないのは、他人にとってだけでない。本人にとってもやはりそうである。はじめは演じているつもりが、そのうち演じているという意識もなくなり、やがて仮面と素面が癒着してしまう。
 その一方で心的構えは、性格よりもずっと可塑的で、生命エネルギーの影響も受けやすい。だからそれは年齢とともに後退する。同時にそれとの比較で、本来的な性格が前景化してくる。年を取るとその人の本質が出てくると言われるのは、生命エネルギーが低下するにつれて、エネルギーに依存しないものが相対的に幅を効かせるようになるからである。
 したがって役者が「老いの過程」を演じるときには、人物の本質的特性を残したまま、その他の心的エネルギーを徐々に減退させるという、器用きわまりない演技が必要になってくる。これは非常に難しい。いかに困難かは、役者が自分自身の老年を先取りして見せることの難しさを想像してみればよく分かる。
 たとえば年とった乙羽信子を、若いころの彼女と比べてみると、生命的なエネルギーが減衰しながらも、本質的な部分だけはそのまま残り、それが前景化しているのが分かる。だが仮に若いころの彼女が、老けメイクを使って「年を取った自分」を演じたとしても、おそらく現実の「年取った乙羽信子」とは、似ても似つかぬものとなっていただろう。「老いた自分」を演じようとしても、心的エネルギーを全ての面において同等に減ずるだけになりがちで、老いてなお変わらぬ本質的な特性を、硬化した残存物のように際立たせて演じることは、困難すぎる課題だからである。
 老年期の浩太を演じている渡瀬恒彦も、同じ陥穽に陥っている。彼は人物の心的エネルギーを、全体として下げるというやり方で演技している。だから青年の浩太が本当に年を取ったら、絶対にこうはならないだろうという印象を受けてしまう。かくして興味深い逆説が生じる。青年期の浩太も老年期の浩太も、同じ一人の役者が演じているにもかかわらず、不思議と同じ人物には見えないのである。
 逆に乙羽信子の演じるおしんは、田中裕子のおしんとキャラが全く異なるから、役者が入れ替わった時にはかなり違和感を覚える。だがドラマが進行するにつれて違和感は解消し、かえって逆算的に「若かりし乙羽信子が演じたであろうおしん」を髣髴させる。
 たとえば若いおしんが、ヤクザの男どもを相手に一歩も引かずにやり合うシーンがある。このシーンは田中裕子が演じているのだけれど、これを若き乙羽信子に置き換えてみると、驚くほどぴったり役にはまっているのが分かる。台本作者の橋田壽賀子は、老年期のおしん役として、直々に乙羽信子を指名したというが、さもありなんと思わせるのである。