断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

今後の仕事について

 少し以前のことになるが、これまでに書いた記事の中から、比較的ちゃんと書けているものを選んで、電子出版(KDPと楽天Kobo)で出した(下記リンク参照)。
 『比喩とリアリティー』は文学関連の記事、『空へ向かって開かれた庭』は美術関連の記事、そして『花火の美学』は静岡の紀行文を集めたものである。「宇久村宏」はむろん筆名だが、「宇久村」とは母方の家族が一時期名乗っていた姓である。全国的にレアな姓だということと、響きが好きなので、前々から使ってみたいと思っていた。ついでに「ヒロシ」の漢字も変えた。これからは出版などでは、この名前を使うつもりである。むろん学術論文では、これまで通り本名を使うことになるわけだが。
 本名などというのは、言うなれば学生服やリクルートスーツのようなもので、来る日も来る日も同じものを着ていると、だんだん身も心も窮屈になってくる。たまにはTシャツとジーンズで登校したり、派手なスーツで面接官をあっと言わせてやりたくなるが、それはそれで色々と不都合も生じるだろう。その点ペンネームというのは便利である。それは制服の下に、ちょっぴりお洒落なネクタイをつけるようなものだからである。
 とは言え単なる酔狂や気まぐれでペンネームなどというものを使うわけではない。谷川俊太郎氏がどこかで、「自分の詩から自己表現という枠組みを取っ払ったら、創作の可能性がぐんと広がった」というようなことを書いていた。同様のことは哲学にも当てはまる。哲学も、学術的体裁という枠組みを取り外してしまえば、思考のフィールドは比較にならないくらい広がるのである。
 学術論文以外でペンネームを使うというのは、一方では哲学や批評を、他方では学術的な研究を、そのつど器用に使い分けようというのではない。むしろ今後は前者の仕事をメインとし、学術的な枠組みにとらわれぬ自由なスタイルでやっていきたいということである。要するにこれは、僕なりの「覚悟表明」なのである。
 村上春樹氏が『職業としての小説家』の中で、締め切りに追われてやっつけ仕事をする小説家を批判しつつ、レイモンド・カーヴァーのこんな言葉を引いていた。「結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中まで持って行けるのはそれだけである。」全く同感であるが、僕のような、締め切りもない仕事を延々と一人で続けている者には、何かで自分を追い込むことも必要になってくる。ペンネームによる「覚悟表明」には、そうした意味合いも含まれているのである。
 さしあたっては以前にもちょっと触れたカント論を書き始めようと思っているが、それと並行して言語と表現に関する仕事も進めていこうと思っています。



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