断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

俳句つれづれ

 以前の記事でも書いたが、私は何年か前から「りいの俳句会」というものに在籍している。毎月一回投句する決まりだが、それ以外にも月一度、上野で句会が開催されている。私は静岡にいることが多いので、句会にはなかなか出られない。だから月に一度の投句が唯一の活動なのだが、これはなかなか孤独な作業である。書いたものを集めて句集にするとか、何かの賞を目指すとか、そういう目的があればいいのだが、それもない。良い作品を作りたいという気持ちはあるけれど、それだけではなかなかモチベーションは保てない。そこでついついさぼりがちになる。今回もかれこれ四ヶ月間、俳句とは御無沙汰になってしまった。一度ならず退会も考えたくらいだが、一方で、ここで止めたら金輪際俳句とはおさらばになることも分かっているので、かろうじて踏みとどまっている。それで時々思い出したように実作にいそしむ。
 さて四ヶ月もブランクができてしまうと、いきなり書こうとしてもダメで、何らかの「リハビリ作業」が必要である。私の場合、とにかく沢山の俳句を読む。歳時記の類を片っ端から、それこそ一気に数百句単位で読む。この段階では句を作ろうという意識は持たない。ひたすら受身で言葉の流れに身を委ねる。分からない句があっても立ち止まらない。勢いをつけてどんどん読み進める。
 するうちにだんだんと俳句独特のリズム感が体の中に蘇ってくる。これでようやくスタート地点に立てたことになる。そこから先は実際に句を作ることになるのだが、ここで二通りの道がある。一つはどこかへ出かけて、実際の景色を詠むというものである。もう一つは歳時記などを手がかりに記憶ないしは想像の情景を呼び覚ますというものである。今回は時間がないので後者の道を採った。
 何かの本をぱらぱらとめくる。(歳時記を使うことが多いが、実はどんな本でもよい。)するとその中にいくつか、何となく引っかかりを感じる言葉にぶつかる。季語のこともあればそうでないこともある。そういう言葉にぶつかったら、それを頭の中でじっと反芻する。すると創作の機縁となるような化学現象(?)が脳の内部に生じる。いくつかのパターンがあるのだが、第一に、言葉が直接イメージを喚起するというケースがある。本の中の言葉に触発されて心にイメージが広がる。そしてそのイメージに導かれるようにして句の切れ端ができる。それを核に一句を仕上げるのである。第二に、言葉が別の言葉が引き寄せるというケースもある。目にした言葉が別の新しい言葉を喚起し、そこから心の中にイメージが広がる。そのイメージをもとに一つの句を作るのである。あるいはイメージと言葉の両方が同時にやって来ることもある。



 浅春や水音白き畦の道

 山宿や雪解(ゆきげ)を急ぐ裏の水

 割り初めし薪ほの匂う春雨かな

 畑打てば雲けざやかに畝の上

 梅が香に幻めきぬ宵の酒

 岬への三月尽の光かな

 夕霧に湖舟呑まれし暮の春

 慧敏の羽さばきして初つばめ

 古街の小庭に垂るる暮春かな



 単純でまぎれのない句が大半だと思うが、一つだけ「岬への三月尽の光かな」という句は解説を要するかもしれない。三月尽という季語の「三月」は、旧暦の三月だから実際には四月の終わりのことで、過ぎ行く春を惜しむ時候である。岬へ向かう道をたどりながら、徐々に濃くなる晩春の陽光。岬の突端の輝かしい風光への予感。