断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

新・文学部の未来

 以前に「文学部の未来」という題で記事を書いた。タイトル通り文学部の「未来」について記したものである。数年前の記事であるにもかかわらず、結構読まれているなと思っていたら、先日、「このブログでよく読まれている記事」のトップにランクされていた。
 実をいうと私自身は、すでに当時から文学部という制度にさほど関心があったわけではない。私はとっくに文学研究というジャンルから離れていたし、そもそも「文学部の未来」が自分自身の将来に関わる重大な死活問題だったら、こんな気軽な記事を書いたりしないだろう。
 しかし書かれたものというのは、いったん筆者の手を離れてしまえば、独り歩きをして有形無形のイメージを形成する。表現自体にも、多少皮肉に面白おかしく書いた部分があり(たとえば「かりに私の子供が、将来、文学研究者になりたいなどと言い出したら、私は真っ先に反対するだろう。しかし私には幸いまだ子供がないし、第一私は、そもそも結婚をしていない。」などといった記述)、今回あらためて読み返してみて、将来の仕事に研究職を考えている方たちに誤解を与えかねない内容も含まれていると感じたので、旧記事のかわりに新しい記事を書くことにした。
 まずいわゆるポスドクの問題について。これは元々、既存の権益を守るために生じてしまった構造上の問題だから、抜本的な制度改革でも行われない限り、解決は難しいだろう。経済的な人肉食をよしとする現代日本の価値観の問題ともつながっており、いわゆるブラック企業の問題などとも通底している。中途半端な気持ちで研究者の道を選べば、ポスドク時に心のふんばりが効かないかもしれない。
 次に語学教師の需要についてだが、これは将来、どう転ぶか分かったものではない。実際、ほんのちょっと前まであれほど学習熱の高かった中国語が、日中関係の悪化とともに、がくっと需要が落ちてしまった。需要という代物は流動的なのである。逆に(これは内田樹氏がどこかで書いていたことだが)、ヨーロッパの政治情勢次第では、将来再びドイツ関係の需要が上向く可能性だってある。かつてのような潤沢な需要は期待できないにしても、10年後20年後のことは誰にも分からない。
 最後に就職問題についてだが、大学への就職を考える人間にとって、もともと文学部という選択肢はほとんど入っていない。もちろん昔ながらの「文学部」を残している大学もあるにはあるが、圧倒的に少数派である。大部分の大学はすでに別の枠組みで組織されている。だからたとえばドイツ文学を専攻したとしても、就職先となるのは「文学部独文科」ではなく、「国際コミュニケーション学部」とか「言語文化学科」などといった学部学科である。「文学部に未来はない」というのは、文字通り文学部という学部そのものが、絶滅危惧種になりつつあるということでもある。
 大学に限らず、現代はいわば社会全体が「泥船」と化してしまっている。どういう職種についていても「船」は沈む可能性がある。結局、最後に頼れるのは自分だけということなのだろう。「自らを恃む」という言葉ほど、現代という時代にふさわしい標語はないかもしれない。