断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

旅人と旅好き―湯川秀樹の自伝『旅人』(4)

 そんな二人の間に、一つの決定的なドラマがあった。それは秀樹が三高に入学する以前、まだ中学に在学中のことである。もっとも息子のほうは、この決定的な出来事を、はるか後年になって聞き知ったのではあるが。
 琢治は元々、息子たちをみな学問の道へ進ませるつもりだった。実際、長男の芳樹も次男の茂樹も、そうした方向で上の学校へ進めた。ところが三男の秀樹が中学を卒業するにおよんで、琢治の心に迷いが生じた。この子は本当に学者に向いているのだろうかと。
 この迷いは、外面的には一家の経済問題というかたちで浮上した。五人の兄弟がおり、そのすべてを大学まで進ませるには相当な経済的負担がかかる。三男坊・秀樹は、いわば「リストラ要員」として父の心に浮かんだわけである。
 むろん純粋に経済的な理由だけでなく、適性面での疑問というものもあった。本当にこの子は学者に向いているのか。もしそうでなかったら、不向きの道を歩ませてしまうのは、長い目で見て本人のためにならないのではないか。たとえば専門学校などに行かせ、実務の道を歩ませるという手もあるのではないか。
 以上は『旅人』の記述によるものであるが、実際にはここには、感情面での父子のすれ違いが大きく作用していたようである。『旅人』には、そのあたりの事情はごく控えめにしかつづられていないが、父・琢治が五人の息子の中で秀樹にだけ親しみを感じていなかったことは、容易にうかがえる。
 が、仮に「ひいきの子」でなかったとしても、その子の素質をちゃんと見抜いていれば、むげに学者への道を閉ざそうとするような真似はしなかったはずである。やはり一番の原因は、秀樹の才能に対する父の無理解と言うべきであろう。琢治は妻に相談した。

「あれはやっぱり、高等学校から大学へゆくつもりでいるらしいか?」
 そのひと言を耳にした時、妻の顔がふと青ざめるのを、琢治は見た。
「どういうことですか?おっしゃることの意味が……」
「分からないか?」
(中略)
「秀樹も、もちろん大学までいくことと思います。」
「……」
「あの子にだけ、どうしてそんなことをお考えになったのですか?」
「ふむ」
「目立たない子も、あるものです。目立つ子や才気走った子が、すぐれた仕事をする人間になるというわけでは、御座いますまい。(中略)それに、どの子にも同じようにしてやりたいと存じます。不公平なことはできません」

 それでも彼は心を決められずにいた。