断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

リルケ三篇

 今回はリルケの詩から、この季節にふさわしいものを三篇ほど引用したい。ただし横着させていただいて富士川英郎氏の訳(新潮文庫リルケ詩集』所収)から。


  いつひとりの人間が

いつひとりの人間が 今朝ほど
目覚めたことがあったろう
花ばかりか 小川ばかりか
屋根までもが歓喜している

その古びてゆく縁でさえ
空の光に明らんで
感覚をもち 風土であり
答えであり 世界である

一切が呼吸(いき)づいて 感謝している
おお 夜のもろもろの憂苦よ
お前たちがなんと痕跡(あとかた)もなく消え去ったことか

むらがる光の群で
夜の闇はできていた
純粋な自己矛盾であるあの闇が



  春

私たちがいま春とともにあると思うのは
ほのかな明るい光がさしてきたからではない
それはむしろ澄みわたった庭園の道のうえで
たわむれているおだやかな陰影(かげ)のせいなのだ

陰影(かげ)は庭を私たちのものにしてくれる
いま始まった変容のなかで
私たちが既に予めもっと変化した自分を見出すとき
私たちの驚きを木の葉の影がしずめてくれる



  あまりにも久しく抑えられていた幸福が

あまりにも久しく抑えられていた幸福が
既に一層高く噴きだして 牧場(まきば)にいっぱいあふれている
背伸びをした巨人の夏は 既に感じている
老いた胡桃の樹のなかで その青春の衝動を

軽やかな花はやがて散ってしまった
いまはもっと厳めしい緑が樹々に忍びこんで働いている
けれどもそれらの樹々をめぐって 空間がなんという円天井を作っていることだろう
そして今日から今日へ なんと多くの明日があったことだろう



 リルケといえば『新詩集』や『ドゥイノの悲歌』、『オルフォイスへのソネット』などが代表的な作品だが、上に引いた詩はあまりメジャーとはいえないリルケ最晩年の詩である。一読してお分かりのように南国風の軽やかな詩風で、訳者の富士川氏も「『オルフォイス』にはじまった明るく、軽快な歌いぶりは、これらの詩篇において、しっとりとした落ち着きを示し、清澄な調べを奏でている。同じ時期におびただしく生まれたフランス語の詩とともに、これらの詩は決して『ドゥイノの悲歌』の単なる余燼ではないのである。」と解説している。
 個人的な思い出になるが会社員時代、自分の将来が見えなくて暗く落ち込んでいた時にこれらの詩を読んで、自分もいつかこういう心境になれたらと憧れたものだった。


よく行く散歩道の風景