断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

三匹の猫

 自転車で走っていたら、ちょっと離れた道の上に猫が座っているのが見えた。速度を落として用心しながら近づいて行くと、何のことはない、道の上に置き捨てた白い紙袋であった。
 またある晩、仕事後にビールを飲み、酔い覚ましに外へ散歩に出た。建物の敷地から出ようとしたとたん、目の前の道を猫がさっと走り過ぎたような気がした。すぐに道へ出て見たが、どこにも何もいなかった。
 それからまたしばらくして、自転車で山のほうの住宅地を走っていたら、とある家の窓に猫が座っていた。道路との間に駐車スペースがあったので、窓はちょっと離れていたが、紛うかたなき大きな黒猫である。自転車を止め、身振りを交えながら声をかけた。うんともすんとも言わない。大きな青い目をじっとこちらへ向けたまま、窓辺のたくさんの飾り物と並んで座っている。
 見ると家の脇に看板があって、手作りの装飾品を売っている店であった。また騙されたか。そう思って苦笑いしながら立ち去ろうとすると、猫は大きく伸びをして向きを変えた。三匹目は本物であった。
 秋は猫が恋しくなる季節である。

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  山奥を自転車で走っていて小さな脇道を見つけ、自転車を止めて徒歩で入っていった。しばらく行くと野生化した茶が生い茂っていて、折しもたくさんの茶花をつけていた。歩を止めて眺めると、すでに実になっているのもいくつかある。何個かもぎり取ってポケットに突っ込んだ。
 そのまましばらく歩いていて、ふと、ここで熊と遭遇したらまずいなと思った。そういえば去年も妙高の方で山歩きしていて、鈴を持参しなかったのを後悔したのである。その直後、小さな茂みの角を曲がったところに ―― いたのである。すぐ先の道の上に、一匹の大きなカモシカが。

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 ちょっと前になるが俳句の会をやめた。もうずっと投句していなくて気が重くなっていたし、かといって無理に自分のモチベーションを掻き立てるだけのエネルギーもなかった。
 とはいえ俳句との付き合いは長い。もはや腐れ縁と言ってよいくらいである。むろん俳句の方ではそうは思ってくれていないのだろうが、こちらではもう少し書き続けたい気持ちなのである。
 漱石の『門』の主人公の宗助が、 内心の悩みを抱えて鎌倉円覚寺に参禅した折、世話になったの宜道という僧に「決して損になる気遣は御座いません。十分座れば、十分の功があり、二十分座れば二十分の徳があるのは無論です。」と励まされる。また山を降りる際に「然しこれ程御坐りになっても大分違います。」と慰められる。
 私も俳句との付き合いは、せめてそれくらいはありたいと思い、退会したことをブログに書く際には、いくつか新しい句を書き添えるつもりだった。それができぬまま先延ばしになっていた。

道の上の紙くず焦がす残暑かな
夜目に見し猫いづかたぞましら
黒猫のまなこの奥や秋の水

 そんなこんなで間もなく新学期である。いや、実はすでに一つの大学で後期の授業は始まっているのである。