断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

意見について

 ブログの更新をサボっているうちにあっという間に一ヶ月経ってしまった。もはや十二月も半ばを過ぎた。寒さもいよいよ本格化して冬本番である。
 それにしても今年は大変な一年だった。新型コロナに関連して、ネットもよく見るようになった。昨日は、北里大学で行われていたイベルメクチンの治験が好結果を出し、政府にも報告が上げられたという話をSNS上で読んだ。
 SNSでは情報と意見が混在している。あるいは錯綜しているといったほうが正確かもしれない。むろん「意見」といっても色々あって、単に主観的な主張や要求もあれば、客観的情報に基づく見解もある。しかし後者の中にも、事実との関係が曖昧でいい加減なものは多い。
 ある事実が挙げられ、「だから」こうすべきだという意見が述べられる。この「だから」が曲者なのである。例えば「go toキャンペーンが感染拡大に無関係であるというエビデンスはない。だからキャンペーンを無条件に継続すべきではない。」といえば、これは正しい「だから」であろう。だがこれを「go toキャンペーンが感染拡大に関係しているというエビデンスはない。だからキャンペーンは止めるべきではない。」とすれば、これは偽の対偶である。
 あるいは「老人は残りの人生が少ない」という事実に続けて、「だから感染など気にせず、人生をエンジョイすべきだ」という意見を言われれば、たいていの人は首を傾げるだろうが、「子供は新型コロナウイルスで重症化しにくい」という情報に続けて、「だから感染など気にせず、どんどん活動すべきだ」という意見を述べられると、なんとなく納得しそうになってしまう。
 しかし意見というものの最大の問題は、それを口にした当人を呪縛してしまうことであろう。情報は私にとっての「他者」である。日本の人口が何人だとか、出生率がどれだけあるかなどという情報は、私の存在とは無関係に、厳としてそこにある事実である。これに対して意見は、それを口にした途端に「私の意見」となる。元々は他人が言った意見でも、ひとたび私がそれを採用すれば、そのときからそれは私の意見、私の一部になってしまう。意見を否定されてムキになる人が多いのは、意見が自分の一部であり、意見を否定されると、まるで自分自身まで否定されたように感じてしまうからであろう。
 しかも意見は、しばしば党派的な見解である。この場合、その意見を信奉する者は、党派的な立場を自分のアイデンティティとしている。こうなると、もはや病膏肓に入るといった趣で、情報に基づいて意見をいうかわりに、意見という観点から勝手に情報を取捨選択するようになる。自分の意見にそぐわない情報をスルーすることは、ネットの世界に限らず、テレビの討論番組などでもよく見かける光景である。
 結局、固定的な意見にとらわれずに、融通無碍に情報に接することのできる人間が、本当の意味で情報強者たりうるのだろう。だがこれは非常に難しい。そのためには「自分」へのこだわりを捨てることが必要だが、「自分」にこだわりがないというのは、ある種の悟りの境地だからである。情報化時代を生き抜く早道は、案外、どこかの山寺に籠ってしばらく座禅三昧にでもふけることなのかもしれない。


追記
北里大学の報告は最終報告ではなく、治験の現状報告と諸外国の治療成果をまとめて政府に伝えたもののようです。訂正いたします。