断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

最近の研究のこと

 コロナ禍が始まっておよそ二年間、大学の授業も含めて自宅で仕事をすることが多かった。その間に自分の研究がそれほど進捗したわけではないが、それ以前の期間も含めて、自分の仕事の理論的な根幹部分はほぼ出来上がった。今回はそれについて簡単に書いてみたい。

1,実在性の問題
 この問題に取り組むようになったのは、今から十年くらい前のことである。ある程度まとまったものになるまで数年かかったが、その後も細かい部分の詰めの作業が残っていた。ちゃんとした形になったのはごく最近である。有体的な事物、たとえば目の前にあるこの一冊の本が「実在的」であるというのはどういうことだろうか?このことを説明するために、理論的な道具立てを一から考案した。

2,言語の問題
 この問題も以前からずっと心にかかっていたが、集中的に取り組んだのはここ二年ほどである。言語を記号という側面からとらえると、伝達は意味作用に二次的に付け加わるものということになるが、これは言語についての正しい理解とはいえない。伝達と意味作用は不可分一体のものである。このことを示すために、ここでも一から理論を構築した
 
 以前にも少し書いたけれど、僕は元々文学畑の人間で、哲学を専門にやっていたわけではない。しかしニーチェの『ツァラトゥストラ』を論じたのをきっかけに理論的な仕事をやり出し、最近はずっと一人で作業していた。自分自身で理論を構築する仕事だったから、どこかの学会や学術誌に発表するわけにも行かない。師もいなければ仲間もいない。色んな意味で孤独な作業だった。自分のやっていることが、ひょっとしたらとんでもない独りよがりかもしれないという危惧が、ときどき頭をよぎった。そのくせデカルト以来の近代哲学のさまざまな難問を、自分の手で解いてやるつもりで取り組んでいたのだから、孤独なだけでなくてドン・キホーテ的な作業でもあった。
 しかし今年の三月、久々にカントの『純粋理性批判』を読み返してみて、以前にはさっぱり分からなかったいくつかの箇所が、かなり明快に理解できただけでなく、カントの理論上の欠陥もくっきりと浮かび上がって見えてきた。何よりの収穫は、この読みを通して、僕自身の仕事がさほど的外れではなかったのを確かめえたことであった。
 カントについては、近いうちにまとまった形でのカント論を書こうと思っている。一般的なカント研究というよりは、カントを叩き台にして自分の理論(あるいは哲学一般の問題)を語ろうというものだから、これはこれでまた年単位の仕事になりそうである。だから今は先に、自分自身のこれまでやってきたことを発表しておこうと思っている。ただし、どこかの哲学学会に所属しているわけではないから、電子出版というかたちになるだろう。
 もちろん、理論面で自分のやろうとしていたことは、これで終わりというわけではない。そもそも自分の本来的な関心は、美や芸術、そして表現一般の問題にある。これまでやってきた実在性や言語の問題も、最終的には全てそこへつながってくるのである。