断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

比喩とリアリティー

 文学における比喩は、あるものと別のものとの思いもかけぬ共通点を示すことで、対象の新しい側面を前景化してみせる。とりわけ詩の比喩は、異質なイメージどうしをぶつけて常凡の言語使用に亀裂を入れ、表現の新しい領域を切り拓いたりする。しかしここで採り上げようと思うのは、対象のリアリティーにかかわる比喩表現、なかんずく直喩のそれである。例えば三好達治の「土」と題された有名な四行詩を見てみよう。

  蟻が
  蝶の羽をひいて行く
  ああ
  ヨットのようだ

 蟻が蝶の羽を引いてゆくさまが、海原を走るヨットのイメージと重ねられ、読者の脳裏に生き生きとした映像を呼び覚ましてくれる。この点をもう少し立ち入って考察してみよう。
 私たちが何かを見るとき、対象は二つの側面において眺められる。第一に対象そのもの、第二にそれに付随するさまざまな性質である。たとえば私が一軒の家を見るとき、何はともあれそこに一軒の家という対象物があり、それが様々な性質(色や形、大きさなど)を担うという構造になっている。私たちのまなざしは、物の「本体」とその「性質」を区別する。この区別は単に知覚にとどまらず、想起やイメージにも引き継がれている。
 ヨットについても事情は同じである。ヨットは一つの物体としてあるとともに、色や形などのさまざまな性質を備えている。ヨットの知覚像は「何」(what)と「いかに」(how)とに分かたれる。これが物を見たり思い浮かべたりする時の基本構造である。
 ところで見逃してはならないのは、私たちの注意力は真っ先に「何」へ向けられ、それから「いかに」が検分されるということである。例えば「あそこにヨットが走っているよ」と言われて沖合に目を向けるとき、私たちはまず「ヨットという物の存在」を確かめる。その際ヨットがどんな色形をしているかは第二義的な問題にすぎず、人によっては「ヨットがあること」を確かめただけで済ませてしまう。同じことは想起やイメージについても当てはまる。「ヨットを思い浮かべてごらん」と言われてイメージするのは、まずはヨットという「物」である。これに対してヨットの様々な性質は、細かに思い浮かべることもあれば、そうでないこともある。
 以上のような認知の構造は、子供の言語習得のさいにも認められるものである。ある物を指しながら子供に言葉(単語)を示すとき、子供はその言葉が「物」を指しているとみなす。たとえば灯台を指さして「トウダイ」と言えば、子供は普通、この言葉が灯台の一部分や素材、色、形などを意味しているとは考えず、あくまでも灯台という「物」を意味しているとみなすのである。
  比喩においては事情が逆になっている。「ヨットのようだ」という文は、単にそれが「ヨットに似ている」ことを意味しているだけではない。そこには「それがヨットではない」という否定の命題も隠されている。それはヨットに似ているけれどヨットではない何かである。ヨットの「何」が否定され、代わりに「いかに」が前景化するのである。
 ひるがえって「蟻が蝶の羽をひいて行く」という文で思い浮かべられるのは「何」のほうであって、「いかに」は後景にとどまっている。そこでこの文に「ヨットのようだ」を続けるならば、「何」としての蝶の羽に、「いかに」としてのヨットが重ね合わされる。これが比喩(直喩)の基本的な構造である。
 もちろん私たちは「ヨットのようだ」という句から、「物としてのヨット」も連想するだろう。しかしイメージの空間で、「物としてのヨット」と「物としての蝶の羽」を重ね合わせることはできない。それらはせいぜい交互に、あるいは並列的にイメージされるだけである。「何」としての羽に重ね合わせられるのは、「いかに」としてのヨットだけである。
 とはいえ、ヨットの性質の全てが羽に重ね合わせられるわけではない。たとえばヨットの素材的な性質は、蝶の羽とは相反するものだから切り捨てられるだろう。逆に帆の形状や船体部分との力学的関係などは、積極的に重ね合わせられる。こうした取捨選択は、比喩が共通性質に着目するものである以上、当然なことといえよう。
 もちろん、似ていればどんな比喩でもよいというわけではない。描写的にはどれほど正確でも、表現として適切でない比喩はある。たとえば蝶の羽のあでやかな紋様は、錦繡にたとえることもできるかもしれない。だが錦繍の比喩は、標本箱に収められた羽を表現するのには適しても、蟻に引かれていく羽を表すのには適さない。後者における描写の力点は、蟻が自分と不釣り合いなくらい大きな羽を引いていく力学的な印象であって、羽の紋様の美しさ精緻さではないからである。
 以上のような二層構造について、もう少し掘り下げて考えてみよう。私たちがある物を知覚するとき、物の「本体」とその「ありさま」が区別されること、またそれが想起やイメージにも引き継がれることを見てきた。しかし知覚とイメージでは、リアリティーの重点に関して大きな違いがある。
 私の目の前にある事物、たとえば机や本や冷蔵庫などのリアリティーは、私の身体との時間的空間的連続性によって与えられる。それらは私の身体の可動領域にあって、思い立てば近づいて手に触れられるものである。重要なのはこの「触ることができる」が、未来の何らかの行為と関連付けられているわけではなく、知覚の具体的な構成要素だということである。机や本の「ありありとそこにある感じ」は、視覚像そのものに含まれている。それは像の「触知可能な」という質感である。反対に身体の運動領域とは切り離された物、たとえば夜空の星や遠い山並みなどは、リアリティーがいくばくか減退し、ときに夢幻的な印象を与える。
 イメージは、心の中で思い浮かべられるものである以上、こうした身体との直接的つながりは持たない。むしろそれは概念と深いつながりがある。たとえば私が犬のイメージを思い浮かべるとき、それはどの犬とも似ているけれど同じではない犬、「一般的」な犬の像である。対象が個物であっても事情はあまり変わらない。私が東京タワーのイメージを思い浮かべるとき、それは特定の時日に眺めた東京タワーではなくて、いかなる時間にも属していない東京タワー、いわば一般性としての東京タワーである。
 目の前に見る東京タワーには、「物」がもつ抗いがたいリアリティーがある。それは知覚された「何」(what)のリアリティーであって、仮に私が東京タワーの「いかに」(how)を素通りしたとしても、やはり確かな力で私に迫ってくる。イメージされた東京タワーにはそれはない。だからイメージが「リアル」であるためには、「何」だけでなく「いかに」のレベルでも十全に思い描かれる必要がある。
 「蟻が/蝶の羽をひいて行く」という詩句が脳裏に呼び覚ますのは、「何」としての蟻と蝶の羽とのイメージである。イメージである以上それは、概念的な意味の延長上に置かれている。ところがこれに「ああ/ヨットのようだ」という句が付け加わることによって、「いかに」の層が前景化する。概念的な描写に過ぎなかったものが、リアルなイメージを喚起するものとなる。「何」を捨象され、純粋な「いかに」と化したヨットの比喩が、蟻と蝶の羽とに、確かな存在の手触りを与えてくれるのである。