シューマンの「春」
シューマンの交響曲第一番「春」のような曲を聴くと、シューマンは、ベートーヴェンを体で知っていた、おそらく最後の世代であるような気がしてくる。シューマンの中ではベートーヴェンは、まだ生の形で生きている。むろん音楽語法とは別次元の、無意識的な感性のレベルでだが。実際、ベートーヴェンが死んだのはシューマンが十七歳のときだから、青春の半ばくらいまではベートーヴェンは存命だったのである。
この差はブラームスと比べると歴然としている。たとえばブラームスの交響曲第一番は、ベートーヴェンの十番目のシンフォニーだなどと評されるが、似ているのはもっぱら意識的な構成面で、感性レベルでの近縁は意外と小さいような気がする。ベートーヴェンが死んだとき、ブラームスはまだ生まれていなかった。
「偉大なるベートーヴェン」へのプレッシャーから、ブラームスなかなかこの交響曲を書けなかったといわれている。だがそれはベートーヴェンが、彼にとってもっぱら歴史的存在だったということにもよるのではないか。歴史的存在としての大先達。それは偉大でモニュメンタルな風貌をそなえているが、それだけにいっそうやっかいな幻影なのだ。
この差はブラームスと比べると歴然としている。たとえばブラームスの交響曲第一番は、ベートーヴェンの十番目のシンフォニーだなどと評されるが、似ているのはもっぱら意識的な構成面で、感性レベルでの近縁は意外と小さいような気がする。ベートーヴェンが死んだとき、ブラームスはまだ生まれていなかった。
「偉大なるベートーヴェン」へのプレッシャーから、ブラームスなかなかこの交響曲を書けなかったといわれている。だがそれはベートーヴェンが、彼にとってもっぱら歴史的存在だったということにもよるのではないか。歴史的存在としての大先達。それは偉大でモニュメンタルな風貌をそなえているが、それだけにいっそうやっかいな幻影なのだ。