断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

アンフォルメル展(ブリヂストン美術館)

 京橋のブリヂストン美術館で開かれている「アンフォルメルとは何か」展を見てきた。
 美術史におけるアンフォルメルとは、第二次大戦後まもなくフランスで興った絵画運動で、同時期のアメリカの抽象表現主義とならんで、俗に「熱い抽象」などと呼ばれている。「熱い」というのは、戦前のカンディンスキーモンドリアンに代表される知的構成のまさった「冷たい」抽象画に対立するところの、主情的で情動的な抽象画ということである。つまりそこでは、画面の知的構成や計算された音楽的効果のかわりに、自由に躍動する線や色彩、筆触などが前面に押し出されている。(アンフォルメルinformelとはフランス語で「形のないもの」「不定形のもの」という意味である。)
 展示は抽象画の祖形ともいうべきマネやセザンヌの絵からはじまっているが、これはちょっとした前菜というべきで、中心となっているのは「第二章 『不定形な』絵画の登場―フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルス」以降である。
 ヨーロッパの絵画史にはいくつかの劇的な転回点があって、たとえば中世からルネッサンスへの移行はその最大の一つだし、二十世紀初頭におこった各種の絵画運動もそれに含まれる。美術史における飛躍や断絶は、同時にそれに対応するさまざまな対概念を生み出した(たとえば「具象画と抽象画」)。「冷たい抽象と熱い抽象」もそうした対概念の一つである。それは美術史的にいえばマイナーなものに過ぎないかもしれないが、背後には芸術における知性と情動の対比という大きなテーマが控えていて、ある意味、「具象と抽象」よりももっと大きな対立軸なのかもしれない。
 それにもかかわらず私には、冷たい抽象も熱い抽象も、より深い意味で共通の感性に基づくもの、いわば同一の精神風土に根ざすものと思えたのであった。すなわちアンフォルメル絵画における描法の攻撃性は、描くという行為における能動性の強度という点で、カンディンスキーモンドリアンの「構成」における能動性と通底している。ところで私がこんなことを思ったのは、展示の最後に中国出身の画家ザオ・ウーキーの作品を見たからなのである。
 ザオ・ウーキーの絵は、対象の具体性をもたないという点で純然たる抽象画であり、また流動する線や色彩を用いているという点で幾何学的な抽象画とは正反対の地点にある。その意味ではでそれは「アンフォルメル」である。だが、画面から受ける印象は、いわゆるアンフォルメルの絵画とはまるで違う。これが「冷たい抽象」でないのは確かだが、だからといって「熱い抽象」と呼ぶこともできない。
 不定形な色や線によって彼が暗示しているのは、アンフォルメルの画家たちが描いたような人間内部の暗い生命的な情動ではなく、外界の自然物である。しかもそれは、人間と対立関係にある自然(西洋的な意味での自然)ではなく、やさしく人を包みこむ「自然」である。
 ザオ・ウーキーの絵には、アンフォルメル絵画に見られるような攻撃性が欠落している。いや、そもそも対象に向けられた視線の能動性というものさえ希薄なのである。私は彼の絵に向かいながら、そこに暗示されたさまざまな自然物を「見ている」のではなく、それらと「ともにある」のを感じた。そこには外的な自然との融和の感情、心地よい一体感があり、嵐の海を描いたような激しい画面からさえ、一種のやすらぎの感情が伝わってくるのである。
 冷たい抽象も熱い抽象も、描くという行為における強い能動性という点で共通しており、その点でそれは同一の精神的態度に根ざしているように思えると書いたが、実はそのことは、ルネッサンス以来のヨーロッパ絵画史全体に当てはまることなのかもしれない。なぜならば、ルネッサンスの画家たちが発明した遠近法という技法は、客体に向けられた主体の対立的な視線を、すなわち対象への強い能動性を前提とするものだからである。かかる能動性の伝統は、二十世紀の絵画革命においても壊されず、ほとんど無意識的に墨守されているのかもしれない。あらゆる伝統の破壊に見えるアンフォルメルの絵画も、実際は忠実にこの伝統を遵守しているように見えるのである。