断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

芥川龍之介と批評

 少し前のことだが、作家の保坂和志氏がこんなことを書いていた。「小説家であることの一番の収穫は小説家であることだ。小説を書いているとつくづく自分は小説を書くのが向いていると思う。」(「小説の贅沢さ」、朝日新聞三月二十四日夕刊)
 戯曲を書くという行為について、三島由紀夫はこんなことを言っている。「私は水が低きに流れるように、戯曲というものを書きだした。私の中にあって、戯曲の地形は、小説よりもっと低いところにあるらしい。」むろんこれは、彼が小説を書くかたわら、一種の手遊びとして戯曲を書いていたというのではない。戯曲を書くという行為が、彼にとって本能的体質的なものであるということのさりげない告白なのである。「(戯曲を書くという行為は自分にとって)より本能的なところに、より小児の遊びに近いところにあるらしい。」
 あらゆる物書きには、「水が低きに流れるように」書きうるジャンルがあるらしい。たとえば漱石の「文学論」と「吾輩は猫である」を読み比べると、小説というジャンルが彼にとって「より本能的なところに」あることがよく分かる。あるいは小林秀雄の初期小説と「様々な意匠」を並べてみると、批評というジャンルが、彼の一等低い地形であるのを看て取れる。保坂和志氏にとってのそれは「小説」なのであろう。
 ところで芥川龍之介の最晩年の批評、「文芸的な、あまりに文芸的な」や「西方の人」を読むと、彼にとって批評が、小説よりも「低い地形」にあるのがよく分かるのである。批評を書いているときの彼には、ほとんど本能的ともいえる筆の自在さに身をゆだねている。それはあるいは彼の小説の、ある種の堅苦しさ息苦しさとの対比から、いっそう目立って感じられることなのかもしれないけれど、ともかくも批評というジャンルが、彼にとって一番低い地形にあることはたしかである。
 幸か不幸か彼には小説を書けてしまう才覚もあった。のみならず当時は、小説というジャンルは批評よりはるかに権威があった。もし彼が現代に(というのは小説の権威が地に堕ちた時代に)生まれてきたら、批評は彼の文才の主戦場となったのではあるまいか。誤解を避けるために付け加えておくと、私は芥川が単に批評的知性の持ち主だっただけでなく、同時に批評的文才の持ち主でもあったと言いたいのである。