断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

「カンディンスキーと青騎士」展

 アンフォルメル展に関連してなのだが、今年の一月、丸の内の三菱美術館でやっていた「カンディンスキー青騎士展」を見たので、そのことを書きたい。
 「青騎士展」と銘打ってはいたものの、実質はほとんどカンディンスキー展で、習作時代から印象画風の過渡期をへて、抽象画に移行するくらいまでの彼の作品が並べられていた。もちろん他の「青騎士」のメンバーもないわけでなく、ふだんあまり見る機会のないミュンターの作品などもあったが、マルクやマッケなど有名どころは展示会場の最後にまとめて数点あるきりだった。が、夭折したマルクの作品と、抽象画の入り口に立ったばかりのカンディンスキーとの対比は、単に同時代性ということだけでなく、いろいろと考えさせてくれるところがあった。
 アカデミックな作風から出発し、最後は抽象の一歩手前まで到達したマルクだが、キュビズム未来派の成果を存分に吸収したその作風は、具体的な対象物を単純な形へと還元し、そうして得られた色彩と形態の塊を積み重ねていって堅牢な画面を作ってゆくという点で、キュビズム的な空間構成の延長上にあるものである。
 キュビズムの画面に見られる緊迫感は、空間の内部の諸要素の「関係」の緊迫感ではなく、空間そのものの緊迫感である。別の言葉で言うと、キュビズム絵画における色彩や形態の積み重ねは、あらかじめ存在する空間内部での構成や計算の問題ではなく、空間の形成作用、すなわち新たな空間を作り出すという行為なのである。
 具象から抽象への移行期のカンディンスキーが試みていたものは、そのような「形成作用の結果としての画面」であった。その点で彼は、マルクと同じ方向を目指していたのである。だが、その結果出来上がった画面は、マルクのそれと比べると明らかに完成度が低い。
 今、私は手元の画集で、中期(具象から抽象への移行期)の彼の傑作との呼び名が高い「コンポジション7」を見ているのだが、画面のダイナミックなエネルギーを感じながらも、この作が「未完の大作」であるという感をぬぐえない。これは「偉大なる試作品」ではないだろうか。この作品はわずか四日間で描かれたというけれど、ひょっとしたら彼は、「あるべき画面」を見据えて絵筆を動かしていったのではなく、描いても描いても「あるべき画面」が見えてこなかったのではないだろうか。見えないままに、ついにここまで絵の具を塗り重ねたのではあるまいか。この絵にみなぎる圧倒的なエネルギーは、目的地にたどりつくためのエネルギーではなく、それを探すためのあがきのように見えるのである。
 後期の彼は、こうした動的な画面形成から、いわゆる「幾何学的抽象」という静的で理知的な(つまり「冷たい抽象」と呼ばれるものへ)移行しのだが、それは彼の新境地というよりも、挫折の末の新発見だったかもしれない。むろんこれは、あくまで私の想像に過ぎないのだけれど。
 「幾何学的抽象」では、空間内部での色と形態のスタティックな関係が追求されている。しかしそのような画面は、いみじくも古典主義の絵画に近づいているのである。「支配的な曲線」や「コンポジション8」の画面から響いてくる音楽は、たとえばプッサンの輪舞図とそれほど遠いものではない。