断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

パウル・クレー/おわらないアトリエ(東京国立近代美術館)

 一人の画家を特集した展覧会は美術展の醍醐味である。しかしその楽しみ方は画家によって異なる。たとえばマティスシャガールのような一個の明確な画風をもっている画家と、クレーのように無数の様式を試みた画家とでは、おのずと別種のものとなるのである。
 マティスシャガールは、様式と個性が、いわば幸福な結婚をとげた画家であった。こうした画家にあっては、様式と個性の継ぎ目、すなわち外面的なものと内面的なものとの照応関係は明確であり、鑑賞する側は、ひとたびその関係さえ知ってしまえば(あるいはすでに知っているならば)、ほんの数枚見ただけで画家の世界の核心に入っていくことができる。
 クレーにおいては事情はまったく別である。彼はきわめて様式バリエーションの豊富な画家である。こうした場合、様式と個性の継ぎ目は作品ごとにまちまちだから、ちょっと見ただけでは何となく消化不良の気分になる。なるほどピカソも、同じように沢山の様式を試した画家だった。しかしピカソにあっては、そのような不断の実験と冒険が、同時に彼の個性のあらわれでもあった。ピカソの画風の多彩さは、彼の超人的な意欲と膂力の表現である。
 クレーの実験はこれに比べるとずっと知的である。だがそれは、彼の芸術が頭でっかちの理屈ずくめのものだったということではなく、むしろそこには気質的なもの体質的なものが濃厚に反映されている。彼の作品は感覚的というよりも思索的、夢幻的というより瞑想的であるが、それは意識的な方法論の所産というよりは、気質としての思索性であり瞑想性なのである。
 したがって、相互におよそ脈絡がないように見える様式でも、背後には同じ気質的なものが脈づいている。そうしたものは、多くの作品を見る内に徐々にのっぴきならない力となって迫ってくるものであって、今回私も、二百点近い彼の作品を一気に見すすめていく内に、そのような彼の気質の息づかいがはっきりと聞こえ出し、気がついたら彼の世界の真っただ中に立っていた。
 ピカソマティスは見る者を鷲づかみにする。私たちはいわば力ずくで彼らの世界の内部へと引きずり込まれる。クレーの絵は、一見したところそんな力を持っているようには見えない。私たちは森を横切り、小川を渡るようにして、気軽に彼の世界を散歩していく。が、する内に私たちは風景のよほど奥へと入りこんでいる。周囲はいつのまにか大自然が広がっている。そのとき私たちは、ふいに自分がクレーの世界の核心に立っているのに気づかされるのだ。