断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ベトナムの葬式

 ベトナムでの滞在歴が長い知人の話である。
 あるとき彼が、ベトナム人の友人にアルバムを見せてもらったところ、目をつぶっている老人の写真があった。誰の写真かと訊くと、死んだお祖父さんのものだという。何だかひどく顔色が悪い。よく見ると四角い箱におさまっている。実はそれは、棺桶に入った故人を写したものだったのである。
 ベトナムの葬式は信じられぬほど賑やからしい。飲めや歌えやの宴会で、人々はどんちゃん騒ぎをやらかす。中には悪ふざけをして、棺桶から故人を引きずり出し、一緒に肩を組んで記念撮影をする輩もいるという。日本人の目からすると正気の沙汰ではないが、どうもこれは国民性の違いだけではないような気がする。
 ここから先は私の勝手な推測である。なので、どうかそのつもりで読んでいただきたい。
 日本人にとって葬式とは、すでに死んだ人間を弔う儀式である。それは四十九日とか一周忌とか、その先に続く一連の法要の、最初のものという位置づけがなされている。葬式は「死の第一章」である。だがベトナム人には、おそらく葬式とは「死の第一章」であるよりも「生の最終章」なのである。
 遺体とは両義的な存在である。肉体は依然、一個の物質的存在としてそこにあるが、すでに生命をもたない。それは「死んだもの」である。
 だが死とは、一人の人間が、肉体も精神も含めて全てこの世から消滅することではないだろうか。遺体があるうちは死者はまだ「半分生きている」、そんな感情が私たちの中にはないだろうか。
 墓石とはもともと、死者が蘇って墓場から出てきたりせぬよう、封印するためのものだったという説を読んだことがある。死体が蘇生可能のものだと考えるのは、それが「まだ半分生きている」からである。原始人ばかりではない。私たち現代人だって、火葬場で棺を火に入れるときに号泣したりする。遺体を焼くということは、故人を完全に、もはや取り返しのつかない形で失うことなのである。
 遺体は半ば生に属し、半ば死に属している。この両義性ゆえに、葬式は「生の最終章」ともなりうるし、また「死の第一章」ともなりうる。どちらに組み入れるかは「線引き」の問題にすぎないが、ともかくもそれによって、一個の文化における遺体の位置づけがなされる。
 日本人は棺桶の中の故人を写真に撮ったりしないが、ベトナム人はそれをする。このことは、葬儀を「死の第一章」とみなすか、それとも「生の最終章」とみなすかの違いを反映しているように思われる。遺体を「死の表徴」と見なすならば、それを撮影するのは禍々しい行為である。だがそれを「生の名残り」と見なすならば、それほど不自然な行為ではない。
 そうした区分は、たぶん葬儀の性質そのものも規定しているのであろう。葬儀が生の最終章であるとしたら、原理上、それは生誕や成人、結婚式などと同列のものということになる。だとしたらそれを、結婚式なみに賑やかに行なったとしても別におかしくない。実際、その知人によると、ベトナムの葬式をはじめて見る日本人は、「結婚式と見間違う」ということである。